本を読まない人間はサルである 

 「本を読まない人はサルである!」という刺激的な副題を書店で見かけ、クスリと思わず衝動買い。

 本を読む習慣の有無というのは、人を判断する一つの尺度にはなるかもしれない。

 尺度…それは知的優劣云々というよりもある種の傾向性。異質な価値観、未知の考えに対して開かれているかどうかということ、そして広い意味での「人間」への興味の有無。そんな傾向性の在り方が読書に対するその人の姿勢から推測することができるのではないか。

 仮説1 
「ある人の読書に対する姿勢には、その人の対人関係の在り方と相関関係が存在する。」

 一言で言うと、カギとなるのは他者への「興味」の有無なのだ。

 大衆の中の孤独が生じるのは彼が同質性のスープに溶け込んでしまっているから。暗黙の「空気」が読める人々だけを残した均質な予定調和の中では、何千人が群れようとも人は一人であり、孤立している。

 人は自らを見るためには鏡を要する。しかし、水であれ、ガラスであれ、鏡となり得るものの構成は人と絶対的に異質だ。異質なものと向き合う中で人は初めて自らの真実を確かめることができる。

 そう、ここだ。異質なもの、イレギュラー、自分のインデックスの再編成を迫るような視野の逆転をもたらすもの。そうしたものの侵入が日常の平面を切り裂く瞬間に人の再生がある。
これを興奮とスリルとして肯定的に捉えるか、それともイミワカンナイで片付けるか…そこには何かの裂け目、少なくとも伸びしろの期待値の絶対的な差がある。

*例外事項: 自分の正当化のための読書

 自らの偏見、無恥、怠惰を肯定するための権威づけを求めて読書をする輩。これが意外に多い。→同質性を求めての読書。コンプレックスの補完薬としての書物。精神的シークレットブーツ。 あー、なんか人文系のナルくてキモイ文学少年に多いわ、この類。

早起きな自殺者 

6時台の中央線で人身事故。ダイアの乱れ。
毎日毎日誰かが飛び込む。慣れてしまった。感性の磨耗。
分刻みに走る鉄の檻の前に飛び出た時、彼らは何かを止めようとしていたのか、身を挺して。

人の心 

 人の心とは何だろう。

 春風薫る草はらのうたたねが、突如吹きすさぶ風雨の修羅と化す。

 気が変わる。

 誰もがきっと気が変わる。

 くるくるくるくる、表情を変える。

 赤子にほほ笑んだ次の瞬間、10年前の屈辱をふと思い出し、鉛色の血流にため息をつく。

 善人と悪人がいるのではない。
 
 宇宙の混沌を映す鏡たちが互いを映しあっている。

どこへ 

私はどこへ行こうというのか?

あなたの足が向かうところへ。

どこへ向かえばいいのか。

あなたが行きたいと思うところへ。

誰と向かえばいいのか?

あなたと共に歩きたいと思う者と。

日々を生きる
ただ日々を生きる。

メランコリー

一期一会

昨日のわが心、今日のわが心にあらず。

昨日の汝の心、今日の汝の心にあらず。

自分の仕事は自分でつくる。
そうでなければ、世界のイライラに巻き込まれる。

音楽が帰ってきた 

音楽が帰ってきた

揺さぶられる心よ
歌うがいい
その鳴り響く喜びと
きりきりした寂しさを

そして刻め
天井の五線譜
その水晶の羊皮紙に

和声がよみがえり
音楽が帰ってきた
そして今度は
その一音一音を噛みしめ
愛しもう
終わらぬ曲はないものの
瞬間の響きに
永遠は宿るのだから

心の還る場所 

 半年振りだろうか、大学の図書館を訪れた。

 泣きそうになるくらい懐かしかった。

 修士時代も含め、大学に7年間いた。

 そんな長い大学生活の中で、図書館はお気に入りの場所のひとつだった。

 何も変わっていなかった、 そこにいる人々以外。
 
 何もかもが懐かしく、何もかもが変わってしまった。

 じわっと暖かな切なさが胸に広がり、しばらくその余韻に浸った。

 ここは自分の還る場所。心が憩う特別な場所。そんな場所を持てる自分は、とても幸せだと思う。
 

すごいものを見た 

 この前、家の近くをぷらぷら歩いていたら、父一人、4〜5歳子二人の連れ立って歩いているのに出くわした。父の方は顔に憂世の塵をまぶしていたが、子供の方は父と一緒に居るのが楽しくて仕方が無い様子、きゃっきゃはしゃぎながら父親の周りをどたばた走り回ってじゃれついていた。とても心の和む光景。

 ところが、はしゃぎすぎて前を見れていなかった子供は、電柱に顔から激突。鼻血が噴出し、この世の終わりのような泣き声が響き渡る。「うわぁ、痛っ」と肩をすくめてしまいそうな光景。

 そこで信じられないものを見た。

 声を枯らして泣き叫ぶ子供を、突如父親が張り倒したのだ。

 「お前が悪い!なんで前を見て歩けないんだ!お前が悪い!」

 いや、まさにその通りなんだけどさ、痛くて泣き叫んでいる子供を、更にまたぶん殴るか?普通?口あんぐり。傷ついただろうなぁ、あの子供。

 その後、ずっとてくてく散歩を続けたけれど、どうも気分は晴れず、帰宅後も何であの時止めに入らなかったのだろうという自責の念で鬱々と嫌な時間を過ごす。

 ところで、最近職場でもこれに近い光景を何回か見た。叱ることと怒る=八つ当たりの区別がついていない人間が本当に多い。いまの職場の状況を一言で評するならば罵声過多、成果過少。駄々っ子たちの八つ当たりを内心冷笑しつつ、ああいう上司にだけはなるまいと心に誓うのだが、ああいうものをぶちまかし、またぶちまかされている人間が親になると、泣いている子供をぶん殴るようになるのかなぁとふと思う。

(あ、ちなみに自分の直接の上長たちは良い方ばかりですよ。)

 「弱い者たちが夕暮れ、更に弱い者を叩く」

 結局、最後は子供が泣く。