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ヘレン・ケラー 「知恵とは…」 

"Knowledge is love and light and vision. "

あえて、訳しません。と言うもの、visionって言葉、日本語に正確に訳す自信がないからです。強いて言うならば、視覚、認識、観念、理念、イメージ、などなどでしょうか。

 先日紹介したヘレン・ケラーの1についてmori夫さんが大変興味深い文章を書いてくださいました。

 ヘレン・ケラーにおける心の中の魔法の明かりってなんだったんでしょうね。mori夫さんは、それが言葉ではなかったかという大変面白い推論を展開されています。そんなお考えに対する、多少の裏づけとなりそうなので、今回の引用を紹介しました。

 目も見えず、耳も聞こえず、そんな彼女にとって、言葉とは生きる上で、どれだけ確かな杖となり、導きとなったことでしょう。言葉を通じて、我々ははじめて世界の中での自分の座標を位置づけることができる側面はあると思います。それは、ひとつは世界観の確立(vision)であり、また、言葉を通じてはじめて他者との関係性の中に身をおくことができる(love)という事実からも言えることだと思います。そういった一連の作業を経て、初めて世界は一人の人間にとって意味のある秩序(light)をなすのではないかと思います。そうした意味で知とは愛であり、光であり、visionであるとヘレンが言う際、そこで言葉の果たしている役割は無視できないものがあるのではないでしょうか。なので、mori夫さんの洞察は、人間の心に対するかなり重要な点をついているのではないかと思います。

 しかし、一方でやはりこの魔法の明かり、言葉に限定されるものではないかもしれないとも思います。何か、もっと視覚と聴覚を失った分、かえって鮮明になった心の眼、心の耳、そういったものではなかったでしょうか。それは、感覚ではない、魂がじかに感じるもろもろの…そう、気づきと言ったらいいのでしょうか、そういった内なる導きであったのではないかと自分は考えています。それは、多分に本能的、もしくは霊的なもので、人間誰もが、いや、すべての生命が所持している、生命の生命たる所以といったようなものではなかったのか。そんなことを考えています。ただし、それをそれと認識し、自覚的に向き合うのは、おそらく他の生物には許されていない人間の特権だと思います。そして、そこにおいて言葉の役割は不可欠なのでしょう。

 確かに、我々は思考によって生の直接のリアリティから一旦離れざるを得ません。そのことは、我々の認識を自覚的なものとすると同時に、一方で概念とリアリティを取り違えることによって世界のリアリティそのものを犠牲にする可能性が時としてある。そういった意味で、言葉とは諸刃の剣。しかし、ヘレンの場合、おそらく外的な感覚の多くを喪失することによって、かえってそういった世界のリアリティを見失うことがなかったのだと思います。だから、彼女はこういった霊的な次元でのリアリティに対して自覚的に向き合い、そして客観的なロゴスの文脈で述べることができたのではないかなといったようなことを、mori夫さんの文章を通じて考えました。
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