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山本七平 「なぜ古典を読むべきか」 

 相手がさらに「古典の素養があるとなぜ大丈夫なんですか」と問うので、私は次のように言った。「個人の体験などたかが知れたもの。私などは大正生まれで、大正自由主義時代、昭和軍国主義時代、軍隊、戦場、餓死状態、収容所、戦犯容疑者、闇市、焼け跡、長期の闘病生活等々から経済成長時代、さらに現代まであらゆることを体験し、最も体験豊富な世代だろうけれども、やはり一個人の体験はたかが知れてる。その点、古典を読めば、何千年間の人間の体験を追体験して自己のうちに自己の体験として加えることができる。何かにつまずいたとき、それが一度体験したことなら、人間は驚かず迷わず活路を見出せるからだ。」と言った。(『「孫子の読み方」 p37』)

4532193028「孫子」の読み方
山本 七平


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 ある、旧都立大の急逝した独文学者のことば。

「文学は人間にとって何なのだろうか。僕は最近になってようやくわかったような気がするのだよ。文学は人間が生きる、そのための実学なのだね。」(『日本の論点2005』)


 これも、山本氏のことばと相通ずるものがあると思う。結局、知恵とは生きた経験からしか得られない。だから、生きたことばというものも、そうした知恵からしか生まれない。そして、古典とは、そうした生きたことばが時代を越えて受け継がれてきたもの

 時間ほど冷徹な評者はいない。価値のないものは、容赦なく淘汰されていく。だから、時間の審査を経て、なおもわれわれの手許に残ったことばは信頼できる。もちろん、それが真理かどうかはわからない。けれど、そのことばが古ければ古いほど、それだけ多くの悩める人々が、そこから知恵と力を得たということだ

 最近、若い人たちと話していると感じることがある。それは、彼らの多くが受験勉強的な勉強に対してあまり違和感を感じていないことだ。われわれの世代では、まだ尾崎豊の不器用さに共感する要素があった。しかし、いまの若い人たちは、われわれよりこの時代にとてもうまく適応できている気がする。それは、いわゆる受験勉強に見られるようなマニュアル暗記型の勉強に対して、あまり抵抗を感じない人が増えたのではないかということだ。

 (もっとも、ニートだとか引きこもりの異常な増加を見ていると、ある種の二極化が顕著になってきたのではないかとも思うが、その話はまたいずれ)

 受験勉強とは、ようするに試験に受かるための勉強である。いわば、試験のノウハウのマニュアルを暗記する作業だといっていい。そこで得られるものは何か?それは、知識でも知恵でもなく、試験攻略スキルの経験値だけだ

 そうした若い人たちが大学に入り、マニュアル暗記の受験勉強と、古典との対話中心の大学の勉強の落差を経験する。そこで、多くの人は、大学での勉強を「非実用的」と切り捨て、バイトとサークルと代返で四年間を終える

 無駄な時間とは思わない。ただ、せっかく大学にいきながら、古典との対話の面白さをきちんと経験できないのは、本当にもったいないと思う。

 人生で経験する障害や挫折…それらに対処するノウハウは、受験マニュアルの中からは絶対に見つからない。結局は、自分で血を流して乗り切るしかないのだ。

 しかし、古典との対話は、そうした旅路における同伴者をもたらしてくれる。彼はあらゆる決断の際に、歴史の吟味を経た叡智をもって、助言と忠告をしてくれるだろう。それは心強く、また励まされることだ。また、そういった生きた知恵を分けてもらいながら旅をすることにより、峠を乗り越えた後に残るものの大きさが劇的に変わる

 「古典を読めば、何千年間の人間の体験を追体験して自己のうちに自己の体験として加えることができる。」

 だてに人類は長いあいだ地球の表を這いずりまわっていたわけではないのだ。アーレント風に言うならば、過去と未来の間にわれわれは立つ。過去はわれわれの背中を押し、未来はわれわれに向かって牙を向く。そういう意味で、生きるということの本質は闘いだ。古典にどのように接するかは、その闘いにおいて過去を味方につけることができるかどうかの分かれ目であろうと僕は思う。
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