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戒めを破り、赦しを受け入れ、賭けをする 

「戒めを破り
赦しを受け入れ
賭をする」

パウロ・コエーリョ 「ヴァルキリー」
(和訳は出てないかも)

 しばらく脳裏に引っかかっていることば。そのせいだろうか、

 「まずは自分自身が赦されているという事実を受け入れなくてはならない。そうでなくて、いかにして他人に福音が説けようか」

 座禅をしていてこんなフレーズが閃いた。飛び起きてメモ。キリスト教の根幹はここなのではないかと思った。

 自分自身が、そして自分のありとあらゆる罪が神によって赦されているという事実を受け入れる。ここからすへて始まる。赦されている…それは、自分で自分を罰することを放棄するということ。裁きは神が行う。人の手にはその権限はない、たとえ自分自身に対してであっても。

 その神が自分を赦している。絶対的に肯定している。それは、自分はありとあらゆる幸せに「値する」ということでもある。すべての大地の実りと天の恵みを享受する権利を認めるということである。そして、それら限りない豊かさをもたらすあらゆる目に見えぬ導きを「信じる」ということである。それらを信じて、身をゆだねると言うことである。

 そのように自分自身への赦し=絶対的な肯定を事実として認めることが出来て、初めて他者に救いを、福音を説くことが出来る。道を示すことが出来る。そして、他者が赦されているという事実を受け入れることが出来る。

 信仰は現世に戒めをもたらすためにあるのではない。それは刑法の代わりではない。そうではなくて、一人一人に赦しを、絶対的な肯定を与えるものである。
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