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再び祈りについて 

 祈るということが、とても難しく感じることがある。

 それは、何か超自然的な力に何かをお願いすることでは、必ずしもない。むしろ、それは自分を自分たらしめている何らかの働きと向き合うことなのだと思う。

 何と向き合うかは、人それぞれ異なるのかもしれないし、共通の父なる神が存在しているのかもしれない。それは答えることのできない問いであるように思う。ハイデガーはこのことをよく理解していた。

 この「向き合う」という行為において、分裂と混乱の中、自分がどこかへ拡散して行ってしまうような感覚を覚えることがある。神の臨在を肌の向こうに感じ、その呼び声、「OOよ、汝はいまどこにいる?」、を耳にしつつも、それに応えようとする自分の不在という混乱。主体の喪失。

 坐り始めたのはそういう信仰上の混乱からだったのかもしれない。自分自身の真実が叫ばなければ、祈りは聞き届けられない。だから今日も坐るのだろう。

 自分の中の真実を、揺り起こすため。
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