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ある一貫性の無い反省文 ① 

 少し、いろいろと思うところがあり、いままでの自分の生き様を反省したい。

 いままで、自分は目標を持たずに生きてきたような気がする。目標というよりも、この言葉は嫌いだが「夢」のようなものだろうか。  

 人はいかに生きるべきかということを常に考え続けてきた。しかし、自分がどのようにして生きたいのか、これについて僕は考えるのを避けていたように思う。これはある種の心の癖かもしれない。昔から自分が何をすべきかということを考えてきたが、何をしたいかということを考える習慣がなかった気がする。だから、ある意味常に健全な判断力を保持してきたといってもいいかもしれない。何をすべきか、あるいはどういう行動が賢明かということについてはあまり迷ったことがない。問題はむしろ、そこで起きる自分のモチベーションとの葛藤だ。

 その時に応じて、すべきことをすべきようにすることが出来れば、人生などというものは至って簡単なものであろう。それこそ、カントのいう内面の輝ける道徳律に添って生きていれば、少なくとも自分ひとりの内面の問題としてはどのような葛藤も起こりえないし、また首尾一貫したきれいでわかりやすい生き方ができるだろう。しかし、人間という被造物に根源的に付きまとう困難さは、自分が正しいと思った生き方に則って生きることが必ずしも自らのモチベーションと一致しないということだろう。(この際、そもそもそういった普遍的な「正しさ」というものが絶えず根底から疑いに付されているこの時代の困難さという問題はひとまずおいておきたい。)それはいたって簡単なことで、ようするにその「すべきこと」が「したいこと」とイコールではないからだろう。だから、本当に重要なのは「人間とはいかに生きるべきか」という問いを独自に立てることよりも、むしろ自分がいかにして生きたいかという問いを同時に立てつつ、相互の関連性において考えることだと思う。

 小さいころから、将来の夢というものを語るのが苦手だった。そもそも、「夢」ということばが僕は大嫌いなわけだが、それは、そういうものについて周囲が軽々しく口にする傾向について苦々しく思ってきたからだと思う。小学生の「夢」などというものは、いまも昔もサッカー選手であったり宇宙飛行士であったりするわけだが、幼いながらにそういうものなりたいんだと眼を輝かせる周囲の子供たちに対して常に冷笑していた。小学校6年生の時、文集の扉の箇所で20年後の自分はどうしていると思うかというものをイラスト付で書かされたのだが、無数のクラブチームのスタープレーヤーや医者や弁護士たちが咲き乱れる中に、僕はへのへのもへじの棒人間と「ばか」という二文字を書き込んだ。担任は当然のごとく鼻白んで訂正を求めたわけだが、僕はただ鼻で笑ってあしらった。幸か不幸か、どうやら予言を成就しつつあるのは同期で僕だけのようだ。12歳にして誇るべき先見の明…そしてその虚しさ。

 政治思想史などという学問を専攻しているせいか、周りからは理想主義者だと思われがちだ。しかし、それは断じて違う。僕は人生に対してまったく何の夢も希望も持っていなし、世界に対しても何も期待していない。そういった意味で、自分は徹底的にリアリストなのだと思う。いや、これはリアリズムと言うべきではないかもしれない。そう言うには、それはどこか歪んでいる。そう、リアリストというよりもシニカルなんだろう。

 古歌に「うつるとは 月も思はず うつすとは 水も思はぬ 猿沢の池」というものがある。心は水のようなもの。心の眼、それは水鏡。波立ちを極限まで抑えた明鏡止水の境地、判断力の違いを分けるのはここだと思う。いかにして自分の先入見や利害関心から自由になって物事をありのままに観ることができるか、これこそがリアリストに求められる資質であろう。しかし、これは頻繁に混同されがちなのだが、シニズム、或いは行き過ぎた悲観主義とは根本的に違う。

 人生に対して何の夢も希望も抱けず、また世界に対しても何の期待もできないというのは、リアリズムではないと僕は思う。それは魂の病だ、明鏡止水の境地ではない。そこには既に、「汝期待すべからず」という強固なバイアス、先入観が作用しているからだ。それは、「神は死んだ」という偏見でもある。これは悪魔の証明ではあるが、実際には神の死など誰も確認していないし、 また、この宇宙のどこかで自分の魂のために配慮し、見守り導いてくれている力存在しないと断定することもできない。

 無論、似非リアリストたちは、それらが「眼に見えず、また数字で確認できず、更には共有可能な物的証拠がない」ことからそういったものの存在を考慮に入れず判断するのが最も「現実的」であると主張するだろう。彼らは目先の物事をただひたすらに合理的に処理し続けていけば、いつかは救済が訪れるというのだ。しかし、「現実的」な問題として、要は世界におけるあらゆる葛藤の根本には、いまこの宇宙にそういった根源的な力が存在し、また作用しているかどうかという問いが存在する。人は生きているのか、それとも生かされているのか、宇宙の存在に意味はあるのか、それとも無いのか。宇宙を二つの陣営へと真っ二つに引き裂いているのは、まさしくこの問いに対してどのように答えるのかに他ならない。神が死んでいるのならば、これほど簡単で素晴らしい話はない。好き放題に友を愛し、敵を憎み、奪い、殺し、そして飽きたころにモルヒネでも打てばよかろう。世を支配するのは自然淘汰の原理。社会的ダーウィニズムに人々を委ね、予定調和の神話の上に胡坐をかけばよかろう。競争による進歩がすべてを解決する。そのうち人類は大っぴらに殺しあうために核の脅威すら克服するし、永遠に貪り続けるために新たな資源をきっと見つけるだろう。しかし、彼らが思い描くようなばら色の未来が実現したとしても、例え人類の寿命が千年を超え、食糧難や資源問題も社会構造を変えることなく技術の革新によって解決し、人口調節も可能になったとしても、何も変わりはしない。意味など、どこにも無いのだから。合理化と統計学による千年王国を達成した新人類たちが最後に行き着く流行は、おそらくロシアン・ルーレットに違いない。永遠の楽園が地上に建設された、まさにその瞬間、すべての意味が消滅し、世界は一夜のうちに病み衰えるのだ。

 僕は、いまここに、自分に対して与えられている世界の豊かさから始めたい。この与えられた世界の中で、どのように自分が生きたいかを考えなくてはならないのだ。いままで僕は自分の望みというものをほとんど持たずに生きていた。僕は世界に参加せず、ただ眺めていたのだと思う。ここに聖書の逸話がある。

 …或る人とほく旅立せんとして、其の僕どもを呼び、之に己が所有を預くるが如し。各人の能力に応じて、或る者には5タラント、或る者には2タラント、或る者には一タラントを与え置きて旅立せり。5タラントを受けし者は、直ちに往き、之をはたらかせて他に5タラントを儲け、2タラントを受けし者も同じく他に2タラントを儲く。然るに1タラントを受けし者は、往きて地を掘り、その主人の銀をかくし置けり。久しうして後この僕どもの主人きたりて彼らと計算したるに、5タラントを受けし者は他に5タラントを持ちきたりて言ふ
 「主よ、なんぢ我に5タラントを預けたりしが、観よ、他に5タラントをもうけたり」

 主人いふ

 「宣いかな、善かつ忠なる僕、なんぢは僅かなる物に忠なりき。我なんぢに多くの物を掌らせん。汝の主人の歓喜にいれ」

 また、1タラントを受けし者もきたりて言ふ

 「主よ、我はなんぢの厳しき人にて、撒かぬところより刈り、散らさぬところより集むることを知るゆえに、おそれてゆき、汝のタラントを地に隠しおけり。観よ、汝はなんぢの物を得たり」

 主人こたへて言ふ

 「悪しくかつ惰れる僕、わが播かぬところより刈り、散らさぬところより集むることを知るか。さらば我が銀を銀行にあづけ置くべくかりしなり、我きたりて利子とともに我が物をうけ取りしものを。されば彼のタラントを捕り手10タラントを有てる人に与えよ。すべて有てる人は、与えられてますます豊ならん。されど有たぬ者は、その有てる物をも取らるべし。而して此の無益なる僕を外の暗黒に追ひだせ。そこにて哀哭・切歯することあらん。」 マタイによる福音書 第25章

 思えば、僕は悪いしもべだ。与えられている恵みを何一つ活かさず、ただ無気力に使い果たしていた。聖書の悪い僕よりも更に悪い。ただ成り行きに任し、駄目になったらさっさと死んでしまえばいいと心のどこかで思っていた気がする。「世間虚仮、唯仏是真」とは聖徳太子の心の叫びであったし、「借りおきし五つのものを四つ返し、本来空に、いまぞもとづく」というのが一休禅師の辞世であった。何一つ、人には自分自身の所有物など無いのだ。生まれ育った環境も、得た知識も、すべての出会いと絆も、すべてはこの世に宿る際に世界から借りているもの。いわば、僕という命に対して神様が預けてくれた銀貨だ。いや、この命すらも授かり物なのだから、もはや何を言うことがあろう。ただ成り行きに任せているのではなく、この命と預かった銀貨で何かをなさねばならない。そして、それは自分にしか出来ないこと、本当に自分のやりたいと心から願うことでなければならない。そして、それは神とともに歩む限り、きっと正しい方向への道しるべとなるだろう。

 その為に多くを授かった。そして、それをなすに十分なものをきっと頂けるだろう。なぜなら僕はその為に居るのだから。自分が嫌いでしかたがなかった。心の底から変わりたいと何度も思った。しかし、変われなかった。助けてくれない神を、時にうらみ、呪った。しかし、当然だ。どのように変わりたいか、まったく考えていなかったのだから。ただ、自分でない自分になりたいと漠然と願っていた。これほど意味の無い願いは無いだろう。大海を越えて行き交う渡り鳥に変えてほしいとまじめに願うようなもの。本来、人類はもはや地球上に存在していてはならない動物なのかもしれない。本当に正しいのは、皆が野に咲く花となり、空を飛ぶ鳥となることだろう。しかし、我々は他でもないこの終末の21世紀において、人として、○○○○(実名)として生きよと命を与えられた。今は、ただその事実を謙虚に受け止めたい。

 だから、遅まきながら、人生で初めて、まじめに将来の「夢」とやらを考えてみたい。この命を何に使うか、真剣に考えてみたい。そう、いま思う

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