スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

平和主義が究極的に要求するもの 

 他人に害を及ぼすくらいなら座して死に、そうすることで加害者と第三者の良心を痛撃せよ。

 平和主義を根本まで突き詰めていくと、この思想に行き着く。

 西欧の伝統においては、ソクラテスの「不正を行うより、不正を蒙ったほうが幸せである」という考えにおいてこの原型が見られるだろうし、東洋の伝統においても、例えば山背大兄王を筆頭とする上宮家の滅亡が仏教的観点から神話化されたような事実においてこの発想の原型が見られるであろう。

 また、マハトマ・ガンディーが説いた非暴力不服従とは、自ら敵の武器の下に身を投げ入れつつ、堂々とその不正を世に説きながら命を捨てよという闘争的な戦術だった。この根幹には、他人を身体を害するよりも自らの命を犠牲にすることで人びとの心を打つほうがより大きな力を持ち、なおかつ崇高で英雄的な行為であるという価値観がある。

 結局憲法9条の問題も、突き詰めていくとこうした思想的な価値観について議論しなくてはどうしようもない。例えば北朝鮮が核ミサイルをわが国の主要都市に撃ち込もうとしているときに、先制攻撃による自衛でも、報復による抑止でもなく、ただ甘んじて死ぬことで世界の良心にかの国の非道を訴えることを、おそらく9条の理念を原理主義的ば遂行は要求する。

 問題は、仮にこうした価値観がより崇高なものであり、人間のあり方としても正道に即したものであったとしても、こうした自己犠牲的な死による戦いを他者に強制することが政治に可能なのかどうかということである。

 まさしく、本来日本における護憲派と改憲派との対立は、究極的なところではこういった暗黙の価値観の相克として理解され、また議論されなくてはならない。

 最も、わが国の護憲派においては、かつてのマハトマ・ガンジーのように国民に向かって死ねと胸を張って説ける腹の据わった人物もいなければ、保守派においてもこうした9条に内在する自己犠牲の精神を糾弾した上で改憲を叫ぶことができる真の意味でのリアリストも存在しない。このことは、わが国における最大の不幸のひとつであろう。
スポンサーサイト

コメント

おじゃまします。
土井たか子氏の講演を聴いた時に、「それでも(非軍事で平和外交に徹しても)日本が攻め込まれたら、そん時はしょうがないじゃないですか!」と言い切っていて、ちょっと感動したことがあります。
ただ自分は独身なんで(土井氏もそうかな)、家族を持つ人がどう感じるかは想像が及びませんけれど。

なんと!

>ウヨホイホイさん

 なんと、いっそ、それはそれで清々しいですね。

 ちょっと、同意はしかねないのですが、そういう彼女のスジの通り方、嫌いじゃないです。

 ぼくがいつも思う、というよりも悩むのは、個人としてはそれでよくても、他の家族を持っている一般の人びとに向かってそういうことを強制できるのかどうかってことなんです。

 正直、本当に悩みます。

ふと槙原敬之の「本日は晴天なり」という曲の冒頭を思い出しました。
戦いたくないという意志を示すために死ねと言うなら喜んで死ぬ、という。

私にも守るべきものがあり、それを脅かすモノからどうやって守るか、その方法として、先制攻撃やら無抵抗主義というものとかあるのだと思うのですが。
平和主義というのは大切なものを守るための手段であると、私は思ったりします。
多分、それは「(他人の心に訴えることによって)戦略的に闘争する」というのとはちょっと論点がずれてきてしまうなぁと思いますが(汗)

大切なものを守るために何(どんな戦略)が必要か、核心に迫る話って、ふだんなかなかできないよなぁ、
でも、表に出して話をしていかないと、隣の人がそれにたいしてどうしたいと思っているかわからないし、折り合いをつけるのは難しいよなって思いました。

まとまらなくてすみません。

>うおさん

 いえいえ、おっしゃることはよくわかります。

>大切なものを守るために何(どんな戦略)が必要か、核心に迫る話って、ふだんなかなかできないよなぁ、

 本当そのとおりですね。しかし、これこそが、本来はまず最初に議論しなければならないことだと思うのです。
 

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://slumber365.blog2.fc2.com/tb.php/452-454a86e0

-

管理人の承認後に表示されます

-

管理人の承認後に表示されます
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。