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坐禅レポォト その3 

 今週、先週と中央線、武蔵境駅の観音院に参禅。

 
 心を研ぎ澄ませ、ただ自分の呼吸を観、鼓動を聴く。

 ぽわぽわと、たくさんの嫌なことが浮かんでくる。

 「鍵を掛け忘れたんじゃないだろうか」

 「勉強しなきゃ卒業できないんじゃ…」

 「先学期の単位、取れてないかもしれない」

 「メールの返事が来ないのは、嫌われたからかも」

 「自分の人生はこれでよかったのだろうか」

 「同期はみんな社会で活躍してるのに自分は…」

 「こんな意味のないことに時間を費やしていていいのだろうか」

 「坐って自分に何の得があるのか」

 …

 さらに、とても他人には言えないようなたくさんの不安、そして不満。これらがぽこぽこ、ぽこぽこと、泡風呂のように浮かんでくる。

 そして、それらをただ「観る」。いちいち相手をせず、ただ浮かんでは消えるのを眺める。

 これほどたくさんの不安を自分は抱えて生きているんだ。

 そのことに、ただ驚く。

 人間とは様々な神経の束であるというようなことをヒュームは言ったというが、それは案外正しいのかもしれないと、坐りつつ自分を観ていると思う。

 呼吸、鼓動、触覚、視覚、聴覚、味覚、嗅覚、思考…それらはみな、相互に独立して勝手にぽこぽこと意識の中にいろんな印象を流しこんでくる。だから、人間と言うものはそういった無数の「系列」が藁束のようにくくられたものなのかもしれない。

 特に、思考なんてものは本当に適当もいいところ。

 ぽこぽことどうでもいいようなことを勝手に意識の中に送り込んでくる。

 そんな色々な印象がこの舞台に入退場を繰り返す。

 さらに、それを観ている自分、観ようとしている自分がいる。

 ふと、わからなくなる。

 自分はいったいどこに居るのだろうか。

 そんな不安にとらわれ、なんともいえない気持ち悪さにとらわれる。

 抜け出そうともがく。

 しかし、抜け出せない。

 ふと、「自分はどこに居るのか」という考えの「印象」にしがみついている自分に気づく。

 苦笑しつつ手放し、再び呼吸に流れ込んでくる「印象」たちを溶かし込みつつ、観る。

 「仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり」という道元の言葉がふと浮かぶ。

 一瞬得意になると共に、ひどい雑念だと思い直し、これを手放す。

 そして、ひどい雑念だと責めている自分を手放す。

 あー、よくわかんねぇと混乱し始める。

 おっと、また「思考」につかまった。

 そう思い再び受け流す。

 ふと、目の前に自分の鼻が見えることに気づく。

 それは、まさしく視界に飛び込んできた。

 25年間、それはずっと視界に入っていた。

 しかし、それはずっと見えていなかった。

 そのことに驚く。

 驚くと同時に、感動する。

 ずっと目の前にあった鼻ですら見えていなかったのだ、道理でそこらじゅうに転がっている、幸せのかけらを見逃すことよと可笑しく思う。

 そして、再び雑念にとらわれたことに気づいて呼吸に焦点を戻す。

 と、そこで終了の鐘が鳴り、周りが姿勢を崩し始める。

 45分の短さに驚くと同時に、たくさんの疑問が沸き起こる。

 いったい自分はどこにあるのか、いったい何のために坐禅をするのか…そもそも、自分はいったい何なのか

 心身共に清々しい爽快感を覚えつつ、疑問は深まるばかり。




坐禅レポォト その1
坐禅レポォト その2
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コメント

しぶいね。初心者の俺は、一呼吸の集中を習ったが、開け始めたような気がする。

>番長さん

 しぶいって、自分だってやってるくせに~。(笑)

 一呼吸の集中って、どんなことですか?
 

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