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前世とか江原さんとか 

 いや~、何がうけたって、いるんですよ。

 イギリスにも江原さんが。(笑)

 コレ↓

 http://www.derekacorah.org/

 ほれ、ここ幽霊大国じゃん?

 だもんで、幽霊屋敷に霊能力者とか科学者とかが泊り込んで、探索するって馬鹿番組やってたりするわけ。
 ってか、馬鹿だよな~。

 馬鹿でしょ?

 だって、真夜中、真っ暗な中わざわざ幽霊が出る屋敷を歩き回るんだよ?

 「誰か居たら音をたててください」

 ドン

 「Oh shit…」

 みたいな。

 あと、いきなりイギリスの江原がトランス状態になって、いろいろしゃべりだしたりとか。

 で、「そこの壁の奥に棺桶がある」

 とか言って、掘ってみたら本当に出て来たりとか。

 嫌すぎ。100万円もらっても、あの番組のスタッフにはなりたくない。
 
 まぁ、とにかく、これが、また適度に笑えるけど微妙に怖いという、なんとも抜群のエンターティメント性。

 さて、本題。

 シックス・センスって映画、みんな観た?

 あれ、俺、大好きなんだよね。

 そういうものが見えちゃう人の世界というのを、すっげぇよく表現しているなぁと思う。

 で、実際問題、居るわけなんだな。

 われわれには見えないものが見える―少なくともそう主張する―人たちが。

 ってか、実際俺も個人的に知ってるんだ、そういう人。

 で、われわれ見えない人間は、見える(と言っている)人間が「存在する」という事実をどう受け止めるべきなのか。

 これは、難しい。

 ところで、犬ってのは色覚がほとんど無いそうだ。
 
 だから、犬には「虹」が見えない。

 だからといって、「虹」は確かに存在する。

 江原さんだとかがテレビで見てると主張しているような現象も、もしかしたらわれわれにとっての「虹」なのかもしれないという考え方もできる。少なくとも、それは例の大槻教授みたいにファナティックにならないための知的節度ではあると思う。

 でも、やっぱり「あなたの前世は平家の侍で…」とか、「あなたの守護霊はのび太のおばあちゃんで…」とか言っているのを観ると、うさんくさすぎて鼻血が出てくる。

 もちろん、もしかしたらそれは自分がある種の悟りから遠いからかもしれないし、鈍感だからかもしれない。

 しかし、「あ、この場所(あるいは人)は、なんか"よくない"」と感じる瞬間は確かにあるし、自分を護ってくれているある種の暖かい「力」や「意志」のようなものは感じるわけで、ああいう人たちを全否定する気にもならないのが正直なところ。

 あと、『易経』なんかも研究すればするほど奥が深いわけで、そういうとこからもある種の「はたらき」は、確かにあるなということもなんとなく感じる。
 
 でもね、やっぱ江原さんとかが主張している事と、自分が感じるものってのは、ある種のズレがあるし、まさしくうさんくせぇと感じる要素満載なわけ。

 自分で坐ってると、いろんなことが起きる。

 パッと視界が開け、何か究極の悟りに到達したような気がすることもあれば、自分と関わるありとあらゆる存在に涙を流して感謝したい気分になったり、何か宇宙の根源的な力の一部となった気がしたり、はたまた大切な誰かの心と自分がつながっていると感じることもある。

 それは、いわば宇宙の深奥が「わかってしまった」と感じてしまう歓喜の瞬間。

 これが恐ろしい。

 こういうのって、いわゆる仏教で言う「魔境」なんだと思う。

 だから、こういう瞬間こそ、気を引き締めて自分の呼吸や心臓の音…、いまそこにいる「自分」そのものにきちんとなりきらなくてはいけない。
 
 感じたものが「嘘」であるとは、必ずしも思わない。

 ただ、そういう経験を経て、自分が何か超越的な真理について「わかっている」と思い込んでしまうこと、これが恐ろしい。

 真理のかけらにしがみついてしまうことで、真理そのものに背を向けてしまうという喜劇。これをやってしまうと、人は自ら神になり、そこから地獄が始まる。

 だからさ、俺、カルトの教祖とかさ、100%インチキな人ってそんなに居ないんじゃないかって思うんだよね。ただ、多くの人が確信を抱いた瞬間に悪魔に魂を持っていかれてしまう。そんなことが多いんじゃないかなぁと感じる。

 だから、麻原さんとかも、最初から崩壊していたわけじゃ無い気がする。あくまで想像だけどさ。

 ま、別に江原さんがそうだとは言わないけどね。

 われ怪力乱神を語らず。

 これは孔子のことば。

 ようするに、そういう超常的なことは、真偽不明だからわたしはとやかく言いませんよ、と、たぶんそーゆー意味。

 じゃあ、孔子にはある種の信仰、もしくは思想の形而上学的基盤がないかというと、そんなことはあり得ない。

 ただ、そういうことを説いても、「悪魔の証明」だし、「真理」の押し売りになるから言わなかっただけ。(だと俺は思う)

 結局、こういう問題って、ひとりひとりが自分で向き合わなければいけないものなんだよね。
 
 一度も神に語りかけ、その声を聴こうと祈ったことがないのに、聖書やキリスト教について書かれた本を読んで、それでキリスト教についてわかった気になってる「インテリ」とか、一度も自分で座らずに「座禅とは」とか語りだす「宗教通」ほど有害なものはない。

 こういう人たちは、似非カルトの教祖よりも悪質だと俺は思う。彼らはある宗教の教義について「科学的」に語ることによって、「信仰」という垂直の次元の「行為」そのもののリアリティから多くの人の目を逸らしてしまうから。

 誰もその人の代わりになって死ぬことができないのと同様、誰もその人の代わりに神に祈ったり、坐って自己の本姓を見つめることは出来ない。

 そして、こういう霊的なリアリティというのは、自分自身がそれと向き合わなくては体験できない性質のもの。

 まぁ、だからこの長々とした雑談に結論をあえて出すとすればこういうことになるのだろうか。

 つまり、オカルトとか宗教とかにハマるのはいいけれど、でも、結局最終的にはいま自分自身が向き合っているものがすべて、アルファでありオメガですよと、そういうことになるのだろうか。

 だから、とりあえず水トーテムポールを通販で買いだしたり(これ身近なところで起きた実話)、聖書の記述に反するから進化論を学校で教えるのは禁止すべきだとか言い出したりすると、あんたちょっと危ないぞと、ま、そういうオチでまとめておこうかね。
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コメント

あら

何てグッドタイミングな記事なんでしょう。

私は、この場所嫌だなというようなことを時々感じるんです。多少は、そういうものを感じる力があるということなんだろうと思います。

友達で完全に「見える」人がいて憑依(でしたっけ)しちゃうこともある人がいるんですけれど、これってとっても辛いことなのだそうです。

普通の人が見えないものが見えてしまう。何でこういう体に生まれてしまったんだろうと、ずいぶん悩んだそうなんですね。最近は、それも運命だと受け止めているようですけれど。

見える人には見える人なりの辛さがあるんだなあと思いました。

>ののかさん

 あぁ、それはその友達の方、とてもお辛いでしょうね。

 ぼくは思うのですが、人間、誰しも何かしら、他の誰にも見えないものが見えているのだと思うのです。そうしたものこそ、最大の授かりものともなり得る反面、その人の背負わなければいけない十字架のようなものになってしまうのかもしれません。

 ののかさんは他人やその「場」の想いにとても敏感な人なんだと思います。だから、良くも悪くもそういったものからいろいろな影響を受けやすいのかもしれませんね。

そうですね

私は自分が他人と比べて敏感なのかどうかは、実は分からないのですけれど…。

そういうネガティブな気持ちになったときの対策として、「美しいものを見たり聞いたりする」というのがあります。

寝太郎さんの「詩・ことだま」の中に好きなものがあったりしますよ。

対策

>ののかさん

 確かに、意識を他に向けることは大切ですよね。スッと、救い上げてもらえるというか。


>寝太郎さんの「詩・ことだま」の中に好きなものがあったりしますよ。

 遠くイギリス、リッチモンドのインターネット・カフェにて、嬉しくてデレデレです。

 ありがとうございます!

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