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心について最近思うこと 

 高校時代、一時期やたらと心理学(主にC・G・ユングのもの)にハマッた時期があった。

 深層心理だとか無意識。理性や感情とはまったく異質の原理が心の奥底に存在し、絶えず強く人を揺り動かしているという考えに強く惹かれた。人は罪と知りつつ罪を犯す。ここに人の本来的な業を見、また現在を見たのは聖パウロであり、聖アウグスティヌスであったが、結局のところ、人の本来的な自己に関する叡智は古の賢人たちの省察に再び回帰していくのだろうか。人の心には、確かに自分の意思や努力では制御できない力と意識が確かに存在する。

 極めて単純な話だが、誰しも愚かな人間になろうとして愚かな生き方をするのではない。また、悪しき人間になろうとして悪を担うのでもない。放埓な人間になろうと意図して放埓な生活をおくるのでもなく、自堕落な生き方がしたくて自堕落な生活をおくるのでもない。人間の生における理想と現実の落差の問題は、そうそう本人の努力の問題として片付けられるような安直なものではない。人の心は、それほどわかりやすくできているわけではないのだ。

 無意識というものが何なのか、衝動やヴィジョン、直感や夢はどこから来るのか、実は何もわかっていないらしい。ただ、現象として自己を観察していると、そこには複数の意思が存在するように思える。自己とは単一の意識ではなく、自我を核にさまざまの別個の意思が星雲のように渦巻き、混在し、干渉し合う総体なのではないかと僕は思う。ビリー・ミリガンは他人事ではない。まったく科学的な裏づけのないことであるが、ああいったことは、自我、自己の核となるような中心的思惟の求心力が極度に弱まったことによって、その他の意思が生きるために顕在化し、また相対的に力を強めることによって起こるのではないかと僕は感じている。少なくとも、人間の自己というものは多くの人が思いたがっているほど首尾一貫したものでもなければ、たやすくセルフ・コントロールできるものでもない。

 そもそも、僕は最近、意識と無意識という形で綺麗に分けられるものなのかどうかにも疑問を感じている。意識と無意識の相互作用に人の精神活動を見るのは正しい考え方だとは思うが、しかし同時に現実はもっと混沌としていて、ゴチャゴチャしているのではないだろうか。東洋の宗教(および西洋におけるカバラや錬金術、魔術の系譜が)における瞑想の技法が、軒並み呼吸法に重点を置いているのは非常に面白い現象だと思う。呼吸という行為は生命維持のための最も根源的な営みだが、それは随意行動であると同時に不随意行動でもある。呼吸こそが、最も日常的な形で意識されるものと意識されざるものが相互に干渉し、また補完し合う現場なのだと言えよう。古代ギリシア語で霊を意味する「プネウマ」ということばは、同時に呼吸を意味するが、まさしく生命の根本にはこの呼吸に見られる意識と無意識の混在する構造が見られるのではないだろうか。

 しかし、改めていわゆる「無意識」と呼ばれている領域に属するとされている諸々の意思や思惟がどこから来るのか、これについては何もわかっていない。僕が最近感じるのは、自己をひとつの完結した個体としてみなす発想が、そもそも誤っているのではないかということだ。さきほど、人間における自己の構造を、ひとつの中核となる意思を中心に様々な別個の思惟が混在しつつ取り巻く星雲に例えたが、人というものはその「中核」に適合する空気中の様々な思惟や想念を引き付け、取り込むことによって自己を形成していくものではないかと感じている。怒りや怨念が中核にある者は、それに応じた諸々の力を引き寄せ、それによって力を得、命を失うだろうし、また、真の意味での祈りと善意に生きる者はそれに応じた諸々の力の加護と導き、そして命を得るだろう。そんなことを、最近思う。

 とまぁ、めちゃくちゃなことを書きなぐってみた。自覚して書いていることなので、非科学的だとかそういう突っ込みはご遠慮いただきたい。
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コメント

連続していて独立しているということ。。。

> 僕が最近感じるのは、自己をひとつの完結した個体としてみなす発想が、そもそも誤っているのではないかということだ。

そうですよね。
私も、そう思います。
逆説的に言えば、自己を一つの完結した個体とみなそうとすること自体が、意識・無意識を切り分けようとすることと等価なんだろうと思います。
独立しようとする主体が、同時に全体と連続している。。。
科学的とは、論理的・理論的・無矛盾という「知」でもって対象を切断し、その切り口を見ようとすることだと思っています。連続することで成り立っている主体を切り離そうとする科学的態度は、それが不可能な主体に対しては、一見「非科学的」な側面を露呈するでしょう。
おそらく、そういうことなのだろうと思います。

響き合い

混在する思惟の中に自己が飲まれることもあれば、
それらに共鳴・反発する中に大切な自己が感じられることもある。
自分のみに縛られると前者に陥り、
自分以外の何かを大切にしようとすると後者の感覚を得やすい。
響き合う中に我あり、みたいな。

「人間ひとりでは生きられない」。
子供の時から言われてたことだけど、
そのことを深く再認識している今日この頃です。

>きすぎじねんさん

 現実における矛盾と、思考における無矛盾への欲求というテーマは僕もいずれ書いてみたいと考えています。

 以前お話した境界線についてもそうですが、やはり、きすぎじねんさんの言う「知的断面」 の問題は、やはりいま非常に重要なテーマだと思います。

 いわゆる「科学的な思考」の問題性―きすぎじねんさんの言う「無矛盾性」や論理的一貫性のためにかえってリアリティから乖離してしまうこと―についてはハンナ・アーレントの様々な著作や、Sheldon Wolinの"Politics and Vision"の最新版で繰り返し議論されていますが、これもやはり非常に現代的に重要なテーマですよね。

 いわゆる「科学的な専門知」が、自然科学の領域においてならともかく、現実の人間世界においてはいかに現実味が無いかは、まさしく人の心という対象に関するスタンスに露骨に表れるような気がします。

>シュガーレスゾンビさん

 えー、なんていいますか、一度気合入れてお返事を書いたのになぜか反映されていません。かなりショックです。

 まぁ、それは置いといて

>自分のみに縛られると前者に陥り、
自分以外の何かを大切にしようとすると後者の感覚を得やすい。
響き合う中に我あり、みたいな。

 これ、すごく大切なことですよね。おっしゃるように、人は自己完結して一人では存在できず、つねに響き合いの複数性のなかで生かされている。このことが一番大切なのかもしれません。

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