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天地を揺るがす共感 

 易経に、澤山咸という卦がある。

 山上の湖のイメージだ。
 易経の場合、基本的に卦の下にあるものが自分、上にあるものが他者という見方をする。

 したがって、愛する者は湖を支える山のようであれというのが、易経のメッセージだと言えよう。

 「咸」という字は、「感」から「心」を抜いたものである。感応するという現象が起こる最も身近な場は、人と人との心だが、しかし、この捉え方は狭いと易経は説く。

 本来、感じ合うということは、自分を取り巻く万物すべてのとの関わりの中で生起しているわけであり、こういった広い意味での感応、これを「無心の咸」という。

 そこで、高山の湖というイメージとなる。

 山は動かず、そして大きく、また虚ろだ。

 大きなものが動かず、へりくだり湖を支える。支えられた湖はよろこび、その水気は下へ下へと染み渡り、山の「虚」を満たしていく。

 すなわち

「沢は水をたたえて、その水気は下へ下へとしみ通る。この沢が山の上にあるので、当然水気は山に浸透することになる。山は土でできている。土はいつも乾燥していて、その中は空虚なので、沢の水気を十分に受けいれて自分の潤うのである。(『語類』七二)かくて山と沢の気は感通する。徳ある人は、この山と沢の感通に象どって、心の中を空虚にすることで、他人を受け容れる。」 易―中国古典選〈10〉 / 本田 済 p274

のである。

 湖を山頂に抱いたような、へりくだった不動の真心。

 ここに象徴されているものこそ、人の心だけでなく、天地鬼神を感応させ、使役する、大きな真心、「無心の咸」なのだろう。
 
 この卦の爻辞はどれも面白い。

 というのは、それぞれの位が、この「無心の咸」に及ばない、いわば人間相手に一喜一憂してしまう「有心の咸」の様々な位相を象徴しているからである。

 特に面白いのが第4爻。

 「心」で感じた時に、そこに不動の真心がなく、心が揺れてうろうろと行ったり来たりしてしまうと、その心情、その迷いに似合った者たちがわらわらと寄って来るというような意味。

 その人の交友範囲を見れば、どういう人間かがだいたいわかるというのはそういうことなのだろう。

 その人に起きることは、すべてその心に相応しいこと。

 広く、大きな心を保つことで、あらゆる人の良いところを受け入れ、引き出し、味方につけることができる。

 迷いもなく、打算もなく、そうしたものを追い出した空虚な心を保ち、動かない。自らを空虚にすることで、宇宙にみなぎる創造の力で自らを満たすのである。こうした心が天地万物を味方につけ、陰陽を和合させ、天神鬼神をもその運気に巻き込むことができるのである。これが、「無心の咸」。

 一方、迷いや打算、さらには不安や疑いに悩まされる心は、それに相応しい表面だけの人間関係につながる。 
 
 大いなる空虚に徹することで、あらゆる心と共鳴することができ、天地万物によって満たされることができる。 

 山上の湖のたとえは、こうしたコスモロジーに裏付けられているのだと思う。


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コメント

大いなる空虚かあ。すごい発想だなあ。でかいよ。

>番長さん

 易経は面白いですよ~。

 やっぱ、なんだかんだ言って、中国文明って偉大ですよ。本当に。

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