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9月11日に際して思うこと 

 あれから三年。

 あの日、テレビで眼にしたものに驚愕した。映画の宣伝かと最初は思った。ショックだった。興奮にかられ、以下のような文章を書き、新聞に投稿し、掲載していただいた。

 「僕は今回のアメリカでのテロ行為に対して強い憤りを感じる。犯行の動機はいまだ明らかではないが、罪無き数千人の犠牲と言う事実からは憎悪以外の何物をも感じ取ることが出来ない。

世界における善悪の多くは相対的である。それは人がそれぞれ異なった立場を背負って生きるものだからである。したがって偏った価値観からの一方的な断罪は忌避すべきだ。

しかしながら、一方で絶対悪と言い切れるものがあると思う。それは憎しみを以って命ある者同士の絆を、或るいは命そのものを絶つ行為である。いかなる理由があろうとも、それらの行為は断じて容認すべきではない。

 国際社会に生きる我々にとって、今回の事件は他人事ではない。諸国民の間には様々な立場や価値観の違いがあるにしても、このような命の尊厳そのものに対する挑戦に対して我々は連帯し対処できるはずであり、また、しなければならない。

我々が熟慮すべきは、如何にして憎しみと暴力の応酬と言う泥沼に陥ることなしにこれらの憎しみの芽を摘むことが出来るかである。僕はこれを機に自分自身と社会のあり方を真摯に見つめなおし、何故この様な惨劇が起きねばならなかったかについて考えてみたい。」(朝日新聞 2001年9月 「声」欄より引用)

 理想論であることはわかっていた。そして、その後アメリカを中心とした先進国が憎悪とヒステリーにかられて戦争の惨禍を世界に撒き散らすことになるだろう事も、漠然と予測していた。しかし、それでも世の中に冷静な対処と反省を訴えずにはいられなかった。


 あの日を境に世界が変わったと言う意見が多い。それは事実だろうか?筆者はそうは考えない。世界における幾多の問題―持てる者と持たざる者、差別・抑圧・圧制…― はあの日以前にもあったし、今もそれは変わらない。しかし、あの事件によってそれらが顕在化した。我々先進資本主義国の住民たちの目の前に、二つの世界が存在しているという事実が晒された。搾取者の楽園と虐げられし者の地獄とが並存している世界構造があらわになった。それがあの事件の、我々にとっての根源的な意味であろうと思う。

 「先進資本主義国によるグローバリズムと縮小していく世界、その過程の裏に我々の視野から排除されたLes Miserables が存在していることを我々はかの事件によって知らしめられた。貿易センタービルに突入していった飛行機は、忘れ去られた世界の惨めなるmajorityによる、彼らを排除する共通世界の光の中への暴力的な挿入行為ではなかったか。」

 学部の卒業論文において、このようなことを書いた。あの日、崩れ落ちる貿易センタービルを見ながら我々が感じた恐怖とはなんであったか。そこには、純然たる憎悪の感情があった。その深い憎しみにさらされて、我々は慄然とした。我々の豊かな生活と平和、それを支えるために虐げられ、蔑まれ、しかもそれでいて忘れ去られた者たちの怒りがそこにはあった。第三世界と我々が十把ひとからげに把握する世界、哀れなアフガニスタン、パレスチナ、そしてイラク…他にも、もっと、もっと…。

 憎悪から生じた「蛮行」は、その凄まじさによって我々が漠然と普遍性を見出していた既存の世界秩序を完全に相対化してしまった。アメリカのヒステリックな一連の、所謂対テロ戦争の動機も、このことによって人々の間で生じた恐怖ではないだろうか。そういう意味では、ブッシュ大統領が、例の世界中からの嘲笑を浴びた演説において、テロの動機は、テロリストたちの「自由、民主主義」に対する憎悪であるとした点も、逆説的ではあるが、あながち間違いではないのである。我々の祖先が、我々の所有権を確保するために結んだ社会契約がつくりあげた世界的規模の搾取のピラミッドは、なんら普遍性を有するものではなかった。それは契約から除外された底辺の人間に憎悪を抱かせる性質を持つものであった。

 テロは自然発生するものではないということを以前書いた。まさしく、テロの背景にある構造的要因に我々は眼を向けなくてはならない。そうすることなしに、はたして我々はテロとの戦争に勝利することができるだろうか?否!!できるはずがない。テロとの戦いは力によっても、ましてや憎悪によっても勝つことはできない。激しく相対立する先進諸国とテロリストであるが、「その対立の根本にはある種の近親憎悪が見え隠れする。すなわち、共に恣意的な正義を振りかざして、暴力によって憎悪の種子を世界にばらまいているという点、さらに異質な他者に対する不寛容という点は、実はあまり大差がないのである。」(同上より引用)こういった形での対立は、何の抜本的な解決にもならない。それは憎しみの種を撒き散らすだけ…そして育っていくのは新たな怒れるテロリストたちとそのシンパ。テロとの戦い、それはテロを生み出し、人々にそれを支持させるような構造的要因、これらを一つ一つ取り除く、もしくは改善していく政治的努力によってのみ勝利することのできる戦いなのではないだろうか。新聞という公の場で発言したとき、筆者はそうした冷静さを喚起したかった。そして失敗した。

 あれから三年。この三年間は一体なんだったのだろう。アフガニスタン、そしてイラク…人が死んだ。死ぬ必要のない人々がたくさん死んだ。殺す必要のない人がたくさん殺した。終わらない苦しみがたくさん芽生えた。そんな三年間。そして、戦いは終わる兆しを見せない。

 かつて、ドイツのヴァイツゼッカー大統領は、終戦記念日を「心に刻む日」であると表現した。それは「ある出来事が自らの内面の一部となるよう、これを信誠かつ純粋に思い浮かべること」であり、「そのためには、われわれが真実を求めることが大いに必要とされる」という。願わくば、いつかは9月11日という日付も、この世界に生きるすべての人々にとって、そういった「心に刻む日」となって欲しいと思う。持てる者のエゴと持たざる者たちの怒り、この二つが織り成した憎悪の連鎖の始まりとなった、そんな悲しい一日として。死んだ者たちは、もう帰らない。しかし、まだ生きている我々ならば、どんな悲劇でも、心に刻み、絶えずそれを思い起こすことによって変わっていける、前に進んでいくことができる、そう信じたい。いつか、2001年9月11日が歴史上の事件として語ることの出来る日がくるように、二つの世界の間に和解があるように、二度とこの愚行がくりかえされないように、そう祈って止まない。
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