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パスカル 「自分の文章との距離」 

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 わたしは、自分の著作を、それを作りながら判断することはできない。わたしは、画家がやるように、そこから少し離れなければならない。しかし離れすぎてもいけない。では、いったいどのくらいだろう。当ててごらん。

『パンセ』Ⅰ p92

パンセ〈1〉
パスカル 前田 陽一 由木 康
4121600142




 どのくらいだよ!?

 と突っ込んでも彼は答えてくれないので自分で考えてみる。

 とりあえず、最初に自分の考え。

  自分の想いを突き詰めつつ、どうやったらその想いがうまく伝わるかにもこだわりぬくこと。この態度が書き手とその文章の間に生み出す距離が、自分の文章を判断するにあたって取るべき最も適切な距離だと思う。

 自分の文章って、自分自身にとっては名文。

 自分の理想どおりに書かれてるから。

 自分の最も興味あることが、自分に最もわかりやすい形で書かれた文章。ネ、最高でしょ?

 だから、自分の文章に対する客観的評価って難しい。

 文章を評価する客観的な基準。

 これさえはっきりしてれば、話は簡単。

 問題はそういう基準がないこと。だから、こっちの方向に突き詰めていくと、結局、「いい文章とは」っていう堂々巡りの議論にたどり着くのかもしれない。

 だから、むしろパスカルの言う「自分と著作との距離」をいかにとるかという観点で考えることが重要なんだと思う。

 書くという営みの究極的な目的は、「想い」を「伝える」こと。

 だから、自分の文章を判断するということは、その「想い」の明確さと、「伝わりやすさ」について評価することではないだろうか。

 まず、自分の中で伝えたいことが漠然としていないかどうか、これを考える必要がある。「何を伝えたいの?」ということを、書きながら繰り返し問い続けることは重要だ。

 自分は基本的に漠然と書き出し、考えつつ書くタイプだ。こういうスタイルの欠陥は、一番言いたいことの周りをいつまでもうろうろ徘徊しているだけで、「まぁ、察してください」的な終わり方をすることが多いこと。これもひとつの芸風かもしれないが、それは自分の中で「想い」が明確になっていないことの反映でもある。

 だから、書きつつ「自分は何を言いたいんだろう」ということを常に考える、ある種の客観的な「距離」は間違いなく必要だろう。

 次に、本来「文章」というものが伝えることを目的としている以上、「伝わりやすさ」には徹底的にこだわりぬかなくてはならない。これだったら、自分でもある程度の客観的な評価は可能じゃないだろうか。

 もちろん、これが正解というようなものは存在しない。ただ、明らかな悪文をできるだけ減らすという注意をはらうことはできるはずだ。

 つまり、1)自分が本当に伝えたいことは何か、2)最も伝わりやすい形式はどのようなものか、ということを具体的に考えることを通じて、ある種の「距離」が書き手と文章との間に生まれる。(擬似的公共性?)

 したがって、パスカル氏への答え。

 自分の想いを突き詰めつつ、どうやったらその想いがうまく伝わるかにもこだわりぬくこと。この態度が書き手とその文章の間に生み出す距離が、自分の文章を判断するにあたって取るべき最も適切な距離だと思います。

 
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