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現代において必要とされている情報の形態について~創作童話 「博士が百人いる村」に思う~ 

 まぁ、とりあえずこちらへどうぞ。

 なかなかグロテスクでしょう?博士のうち約十分の一が自殺もしくは行方不明になってるそうな。

 ブログをやっていて思うのは、知識人に対する社会の需要は大きいということだ。あまりにも情報の量が多すぎて、人々の個人的な処理能力がそれに追いついていないのではないだろうか。現在、きちんと文脈付けられた信憑性の高い情報に対する巨大な潜在的需要があると僕は個人的に考えている。したがって、それらを提供し得る知識人に対する需要は、実は潜在的には高いんじゃないかと思う。ただし、それは必ずしもいわゆる「研究者」に対する需要とイコールではない。また、専門的な知識そのものについての需要でも、必ずしもない。

 かつて、人類史上これほど一般の人々がアクセスできる情報の量が豊かになった時代は存在しない。しかし、一方で膨大な情報は個別にバラバラに存在しているだけで、それらを見つけ出し、整理し、相互に脈絡付け、ひとつの文脈のなかに再構成する作業は個々人にゆだねられている。

 ここで問われているのは、広い意味での「情報を活用する創造的能力」としての情報リテラシー能力だろう。そして、現在社会において必要とされているのは、こうした能力に基づいて整理され、文脈付けられた情報ではないだろうか。

 これからの時代、求められるのは必ずしも専門知だけではないと思う。むしろ、巷にあふれる膨大な量の情報を整理した形で文脈付けて発表する技術が求められてくるのではないだろうか。それは情報に対する鑑識眼と編集力だと思う。そして、それこそが学問に取り組んだことで得られる最大の技術なのではないだろうか。そういった意味では、どのような学問も「実学」だといえる。

 もちろん、11000人も博士を量産しておいて、きちんとそれらの人々の能力を活かす場をつくらない行政が一番の問題であろう。第一に人材の無駄遣いであるし、そもそも彼らを育成するために使われる税金が無駄である。しかし、それ以上に当の知識人の卵たちも、あまりにも社会に対して自らの学問を用いて働きかけていく姿勢が足りないのではないだろうか。

 知識、そして学問そのものが無駄なのではない。それを研究室や学会という内輪のオタク・サークルでのみ活かそうとするから、結果として無駄が生じるのだと思う。現在過剰供給されている知識人の卵たちの前途は、まさしく現在社会に存在する文脈付けられた信憑性の高い情報に対する潜在的需要に応えうるかどうかにかかっている。
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