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ダ・ヴィンチ・コードはキリスト信仰に対する脅威なのだろうか? 

 ダ・ヴィンチ・コードの映画化ということで、いろいろ話題騒然。

 そんな中、試写会でこんなことが。

トム・ハンクスが演じるロバート・ラングドンが、誰がイエスの子孫とみられるかを明かす重要な場面で、観衆は失笑をこらえきれなかった。タイムズ・オブ・インディア紙の記者は「ハイライト場面で笑いが起きた。大きな笑いでなく忍び笑い。それがすべてを物語っている」と話した。

時事通信


 あは、想像しちゃったよ~。

 確かにあのトム・ハンクスが「アレ」をもったいぶった表情で言ったら、うけるだろうなぁ。(読んでない人、ごめんなさいね。)

 さてさて、以下完全なネタばれ。(ちなみに"The Last Temptation of Jesus Christ"という映画のネタばれも含む)

 しかも、すっごく長いです。

 警告しましたよ?
 まぁ、とにかく、そんなこんなで、本来荒唐無稽な話ではあるんだけど、たとえばカトリック教会が映画のボイコット運動を展開したりと、過剰な反応も目立つ。

 しかし、あれに書かれてた事って、そんなにショッキングなことなんだろうか。確かにあの小説はエンターティメントとしては素晴らしい出来だけど、その手のキワモノ系の話が好きな人ならば、どこかで耳にしたような話の寄せ集めに過ぎない。

 仮に、本当にイエスがマグダラのマリアと結婚していて、その家系が今の続いているとしよう。(こんな感じ
 それを全面的に認めるとして、果たしてキリスト信仰の何が失われるのだろうか。そこを考えてみたい。

 自分はクリスチャンだけど、仮にダ・ヴィンチ・コードに書かれていたようなことが事実であったとしても、自分の信仰には影響がない気がする。(これは自分が無教会で、中世だったら異端呼ばわりされるだろうなんちゃってクリスチャンだからかもしれないが)

 いいじゃない、別に結婚していて子供がいたとしても。かえって、「神、人として生き、人としての喜びと苦しみをすべて生き抜いて十字架に自ら登りぬ」ということの重みを実感することができるんじゃないだろうか。

 そういえば、"The Last Temptation of Christ"という映画がある。ここで描かれるイエスは、衝撃的だ。彼のメンタリティは完全に普通の人間。(以下、これも激しくネタばれ。)

 精神病者の幻聴のような神の声が彼を執拗に追いつめる。それに導かれ、教えを説いたり奇跡を起こすわけだが、イエス本人にはまったく確信がない。

 「主よ、なぜわたしなのです?」

 彼は決して課せられる過酷な運命を望みはしない。それどころか、絶えず聞こえてくる神の声に対してノイローゼのようになり、なんとか逃れて平凡な人生を歩もうとする。

 そんな風に神に対して泣き言や恨み言を繰り返す彼は、当然受難の際にはみっともないほど悲鳴をあげ、苦しみぬく。

 そして、十字架の上、苦痛に身もだえするイエスに悪魔が天使を装い最後の誘惑をしかける。

 「あなたは十分に苦しんだ。さぁ、神様はあなたに第二の人生を用意してくださってます。わたしと一緒に来なさい」

 苦しむイエスはその誘惑に負け、十字架から解放されることを選ぶ。

 そして、「もしも十字架にかからなかったら」の世界に移され、結婚し、子供をもうけ、平凡だが幸せな人生をおくり老人となる。

 年老いたイエスが街を歩いていると、説教をしているパウロに会う。

 パウロが説く、「十字架にかかり、死ぬことですべての人の罪をあがない、そして復活したキリスト」の話を聞いて、憤激したイエスはパウロに食って掛かる。

 「何を言う。わたしは死んでいない。わたしがイエスだ。」

 パウロはイエスを突き放す。

 「だとしたら、むしろわたしはあなたを哀れむ」と。

 やがて、イエスは臨終を迎え、妻子やかつての弟子たちに囲まれ大往生を遂げようとする。まさにその時、ユダが乱入してきて救世主であることから逃げた彼を罵倒する。

 イエスは弱々しく答える。

 「違う、神様がわたしの苦しみを哀れみ、天使を遣わしてわたしを十字架から解放してくれたのだ」

 ユダはイエスを嘲笑い、その天使を指差して言う。

 「あれが天使だと?馬鹿な。あれこそ悪魔ではないか!?」

 愕然とするイエスを尻目に、悪魔は美しい少女の装いを脱ぎ捨て、本性をあらわす。そして、勝ち誇ってイエスを嘲笑する。

 「砂漠で言っただろう?わたしはきっとお前の前に、再び現れると!」

 すべてを悟ったイエスは初めて自らの意思で、渾身の力を込めて神に祈る。

 「主よ、どうか我を十字架の上に、ゴルゴダの丘へと戻したまえ!」

 その瞬間、奇跡が起き、彼は再び十字架の上に戻る。今回は自らの意志で。キリストとして死ぬために。

 そして、苦しみながらも歓喜を込めて叫ぶ。

 "It's all accomplished!"(すべて成就せり!)

 以上、ちょーうろ覚え。

 荒唐無稽な映画ではあるけれど、こういう描かれ方をしているイエスって、いいなって思う。そして、それはダ・ヴィンチ・コード仮説によって描かれるイエスに近いものがあるかもしれない。両方とも、もしイエスがもうちょっと人間臭い人だったとしたらって仮定の話。

 もちろん、そういったある種のオカルト的スキャンダルが事実かどうかは怪しい。でも、どうせ、史的イエスについてはほとんど正確なことは何もわかっちゃいないのである。(そこらへんのジレンマは遠藤周作の『死海のほとり』が詳しい)

 しかし、それでも信じることはできる。

 実存的な信仰のレベルで大切なのは歴史的イエスを再構成することでもなければ、聖書を基にした教理的整合性を徹底することでもない。

 そうではなくて、自分がもっとも助けを必要としているときに、「人として生き、その罪を背負って十字架で死んだ」イエスを通じて世界と自分とを和解させてくれた今を生きる神に対する信頼ではないだろうか。

 そう、神は今生きている。

 そして、自分には聖書のイエスを通じて手を差し伸べてくれた。

 だから信じることができる。

 英語で信仰のことをfaithと言うが、この言葉には日本語で言う「信頼」のニュアンスが大きく含まれている。

 信じるということは、何かの「神話」や「教説」を真実だと思い込むことではない。

 そうではなくて、それらの教えに自分を導いてくれた今を生きる神への信頼なのである。

 神を信頼するから、自分自身の運命も、大切な人のことも、すべてを彼に委ねることができる。そして委ねているからこそ、教えを信じることができる。

 だから自分はキリストを信仰するのであり、それは仮に史的イエスが結婚して子供を授かり、その子孫がいまこの地上のどこかで生きていようとも、まったく関係のないことなのである。正直言って、どうでもいい。

 そういう理由から、自分はダ・ヴィンチ・コードみたいなキワモノ・エンターティメントに対し、教会がそんなに神経質になる必要はないと思う。(まぁ、これはこれでイタイが

 と、その程度の事を言うためにまとまらない長文になってしまった。反省。

 ってか、絶対映画が公開されたら、ルーブルのピラミッドをどうかしようとする馬鹿が出てくると思うんだよね~。実際、自分も気になるし。

 確かに、そう考えてみると、あの小説、いろんな意味で面白いなぁ。映画そのものにはあんまり期待していないけれど、映像でいろんなミステリー・スポットを実際見れるのはポイント高いかも。
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コメント

クリスチャンとダビンチコード

クリスチャンの友人知人の方が、標記のタイトルで意見を書いているのを見るのは初めてだったので、興味深かったです。

信仰と知識として学ぶキリスト教は全く違いますよね。双方の間に知的なつながりはあると思うのですが、どちらも備えていなければ信仰していると言えないとか、そういう訳ではないですし。

クリスチャンの友人知人と話していて、
この本のことを話したことがないので、ちょっと聞いて見たいような気もします。

最近、受洗を決意して、本を読んだり人と話したりしていた矢先に、こちらで自分に相応しい話題が与えられたことを感謝しています。

>まりりさん

 ほぅ、受洗するのかい?

 それはおめでとう。

 自分はしていないのだけど、きっとまりりさんにとってひとつの大きなきっかけであり、新たなステージへの第一歩になるのかもしれないね。

 ともあれ、近いうちにお祝いに一杯やりましょう。

 俺は変わり者だから、この映画に関する俺の意見はあまり参考にならないと思うよ。
 

神の真偽より信仰の真偽が重要ってことね

 信仰って大切なものを大切にする上で、迷いなき決断と行動を支えるものだと。

 だから決断と行動を弁明・正当化する為に信仰対象を誇張・虚飾するといった逆転は、もはや信仰じゃない。

 そもそも神様を絶対的存在と叫ぶ以前に、その正しさに共感する心が既に絶対的じゃん、それで十分じゃんと思ったり。

 などなど色々考えてしまいました。寝太郎さんがナイスな信仰の持ち主であるのは前から知ってましたが、果たして世界の多くの人はどうなんでしょうね?むむむ。 

たぶん

>バルさん

 こういうことにヒステリックな反応をする人って、真偽でものをとらえている気がしますね。

 宗教は真か偽か。

 そこで自分を納得させ、他人を説得しようとするから宗教が似非科学になっちゃう。

 教義そのものは突っ込みどころ満載だけど、あなたは信じる。本来は、そういう人格的な問題だと思うんですけどね。

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ダ・ヴィンチ・コード

5月20日に世界で同時に封切られるらしい。既に映画自体や配給元のソニーに対するカトリックからの反発が強まっている。映画はイエスの血脈に関するミステリーであり、フィクションに過ぎないのだが。なぜカトリックはそれほど目くじらを立てるのか。少し前に起きたデンマー
  • [2006/05/19 21:23]
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