スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

ハンナ・アーレント 「古代ギリシアにおける平等観」 

「すなわち、トックヴィルの洞察にしたがってわれわれがしばしば自由にたいする脅威だと考えている平等は、もともと、自由とほとんど同じものなのであった。しかし、イソノミアのもつ言葉が示唆している法の範囲内におけるこの平等は、政治敵領域そのものが財産と奴隷をもつ者にだけ開かれていた古代世界においては、ある程度まであらゆる政治活動の条件ではあったが、本来、条件の平等ではなく、公民の一団を構成している人びとの平等であった。イソノミアは平等を保証したが、それはすべての人が平等に生まれ平等につくられているからではなく、反対に、人は自然において平等ではなかったからである。そこで人為的な制度たるほうすなわち法律によって人びとを平等にする都市国家を必要としたのであった。平等は、人びとが互いに 私人としてではなく市民として会うこの特殊に政治的な領域にのみ存在した。この平等の古代的観念と、今日の平等の観念、つまり人は生まれながらにして平等であり社会的、政治的な人工の制度によって不平等にされているのであるという観念がどれほど異なっているか、いくら強調してもけっして強調しすぎることはない。ギリシアの都市国家の平等、すなわちイソノミアは都市国家の属性であって、人間の属性ではなかった。人間はその平等を市民になることによって受けとるのであって、その誕生によって受けとるのではなかった。平等も自由も人間の本性に固有の質とは理解されず、そのいずれも、自然によって与えられ自然に成長するものではなかった。それは法律であった。すなわち約束ごとであり、人工的なものであり、人間の努力の産物であり、人工的世界の属性なのであった。」『革命について』 p40~41



 「生まれついて均質な者同士ゆえの平等」ではなく、「生まれついて異なったもの同士ゆえの平等」というところがポイント。異なっているからこそ、平等の立場で語り合う政治の空間が準備されなきゃいけないってことなんじゃないかな。
スポンサーサイト

コメント

 平等は好きだけれど、「万人が平等であるのが当然」という概念に何か危険なものを感じていた理由がなんとなく分かった気がします。

 政治レベルでも、個人と個人の関係においても、異なる者同士の約束事が失われつつある近年(窮屈なだけの圧力的法制、通じない「暗黙の了解」、etc)、必要なのは平等を叫ぶことではなく、異なる者との対話ではなかろうかと。

>バルさん

 あぁ、なんかこの一節を紹介することで、一番伝わって欲しかったことが伝わって本当に嬉しいです。

 最近、ネットでやたらと画一化や均質性を求める傾向が増えてきたのが、非常に自分は気がかりですね。
 

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://slumber365.blog2.fc2.com/tb.php/355-0c2aa860

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。