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野口悠紀雄 「面白く書くということ」 

 「面白く」は、読者を引きつけようとする営業努力である。講義の担当教授が書いた指定教科書なら、面白くなくてもわかりにくくても、講義をとった学生は読む。しかし、文章執筆者が、つねにそれほど恵まれた立場にいるわけではない。読者におもねる必要はまったくないが、謙虚であることは必要だ。

 このことを自覚さえしていないのが、多くの教師と学者である。「あなたの話は面白くないね」と、面と向かって言われたことがないからだ。学生は試験があるから、つまらない講義をやむをえず聞いているだけなのに。

 こうした人々は、文章を書くときも同じ態度になる。読者に読んでもらうという謙虚さがない。それどころか、「わからないほうが高級」と思っている人も多い。読者諸氏よ、このような文章に、決して惑わされてはならない。訳の分からぬ文章は、高級な文章ではない。ほとんどの場合、読むに値しない文章なのだ

 日本の学者の大部分は、輸入学問を教えている。教えることの内容が正しい(つまり、「ためになる」)ことは、すでに外国で証明されている。だから、権威主義になり、「教えてやる」という態度になる。「私の考えが正しいことを、どうか理解してほしい」という気持ちにはならないのである。

 これに対して、新しい考えを最初に発見した人は、エバンジェリスト(伝道者)にならざるをえない。「ためになる内容を、面白く、わかりやすく」話さざるをえない。そうしなければ、古い考えや異教に捉われている人々を目覚めさせることが出来ないからだ。

 数学者のピーター・フランクルはいまでも大道芸を続けているそうだ。なぜか?無名時代、大道芸で観客の笑いを誘うために、大変な苦労をした。面白くなければ、観客は帰ってしまう。いまでは、講演会に行くと主催者が迎えに来る。舞台に上がれば大きな拍手が起こる。「ではボクは賢くなったのか?」と彼は自問する。「とんでもない。老けただけのことだ」。「人は有名になると、悪い方向に変わる危険がある」。だから、自分を客観的に眺め、原点に戻るために、大道芸をやめないのだという。

 まったく同感だ。というより、いさめられた。私自身も、老けただけなのに、「偉くなった」と勘違いしたことはなかったか?大道芸人になったつもりで文章を書いているか?他人を批判する前に、自分を見直さねばならぬと気がついた。

『「超」文章法』 P45~47 「超」文章法
野口 悠紀雄
4121016629


 いやはや、これを読んで反省した。

 ブログで書くって、まさしく大道芸に違いない。

 書きたいから書く。

 だけど、読んでくれる人が居るおかげで書くことが出来る。

 考えてみれば、書き始めたころは、読者はたった一人。「ブログやってみない?」と誘ってくれた友達だけだった。

 自分の書いたものを見ず知らずの人が読んでくれて、反応してくれるようになったのはいつからだろう?

 書いた記事は読まれるのは当たり前。

 どこかでそういう驕りがあったのではないか。

 自分は書くことによって自分を偉く見せたいんじゃない。そうじゃなくて、伝えたいんだ。読んでくれる人がいなきゃ、自分は何も出来ないんだということを忘れないでいたい。
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