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書評 陣内秀信 『東京の空間人類学』 

東京の空間人類学
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陣内 秀信


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総評

 世界でも稀有なユニークな都市、東京。入り組んだ町並み、妙に緑の多い都心…これらにはちゃんと歴史的な背景があった。本書は東京の隠れた個性と魅力を江戸の昔まで遡り、解き明かす名著。読者は、さながら良質な推理小説を読むような興奮を覚えるであろう。

 本書での陣内の焦点は、「東京のユニークさ」を江戸との連続性において描き出すことだと思われる。陣内はニューヨークなどの「近代合理主義に基づいて建設された都市」(p11)との対比において、東京は無個性な都市ではないかという考えに対して反駁する。すなわち、「東京では、変化に富む立地条件と、その上に江戸以来つくられた都市の構造とが歴史的、伝統的な空間の骨格を根底のおいて形づくって」おり、したがって、そういった「近世の構造が現在の東京の基層に生き続けている」(p14)という形での江戸との連続性こそが、東京を際立ってユニークな街にしているというのである。すなわち、「…西欧の建築と都市の造形手法が我が国の伝統的な都市の文脈のなかに徐々に取り込まれながら、結局、日本しかない独特の都市の空間や景観を創り出した」(p14)のである。

すべての議論の根底にあると思われる陣内の一般的な都市観、並びに東京観について紹介したい。陣内によると、都市においては「建物にしても道にしても決してばらばらということはなく、ある文法によって構造化され、文脈をもって並んでいる」(p23)といい、それが彼の都市を見る上での着眼点、いわば都市観であると言えよう。そして、東京の場合、その文脈とは土地の原地形であり、またその上に構築された江戸の町並みであるとする。つまり、東京の「個性を演出している根底の文脈は、豊かな地形の上に展開した壮大な城下町江戸の建設とともにあらかた形づくられた」(同上)というのが陣内の東京観であると考えられる。

 では、ある都市を見るうえで、その原地形とはどのような意味合いを持っているだろうか。陣内によると、ある都市における原地形とは都市形成のあり方を根底において規定し、方向づける」(p24)ものであるとする。江戸の場合、それは「武蔵野台地の突端に城を構え、東の沖積低地に下町に町人地、西の洪積台地に山の手の武家地を配する典型的な城下町のあり方」の形成につながった、結果として、江戸は「世界でも類例がない、橋と坂が無数にある町」(p108)となったのである。陣内によると、江戸の都市計画の最大の特徴は、それが地形に則った街づくりであったことであり、実際の上からの都市計画と「人びとによって生きられた」生活空間が相俟って江戸という都市を形成していったのだという。そういった過程を経て、結果として「…山の手には起伏に富んだ豊かな地形を誇る武士の生活空間が、下町にはデルタを造成して掘割の巡る町人の生活空間がつくられた」というのが彼の主張である。

 まず、第一の山の手における都市形成の原理であるが、それを陣内のことばを用いてひとことで言いあらわすのならば、「<場所>がすでにもっている<文脈>を大事にして計画、設計するという考え方」(p38)に基礎付けられた「城下町に共通した<計画的意志>と武蔵野台地の<起伏に富んだ原地形への柔軟な対応>との間のバランス」(p36)であると言えよう。具体的には、「都市全体の生態系を尊重する柔軟な発想に立ちながら、しかし同時に、居住地の部分部分には適度に計画的な秩序を取りこむ、という両刀使いの方法によって、決して画一的にならない変化に富んだ都市環境が創り出された」(p36)が江戸の山の手における都市形成の原理であるというのが陣内の主張であると思われる。

 具体的な話をするならば、台地においては、既存の台地の尾根を通るようにつくられる主要街道や、環尾根道、それに支尾根道がつくられ、それらは武家地として開発されていった。一方、谷地はプレ江戸期より農地として発展していて、谷道として郷村間を結んでいた。そうした、かつて百姓町であったような谷地は町人地へと変貌していき、結果として「台地の上と下とで相互に支えあう関係」(p100)住み分けの関係がここに形成されていった。さらに、江戸は都市として二つの拡大の過程を経て拡大していく。ひとつは、「放射状に延びる主要街道に沿ってまず市街地が帯状に拡大する現象」(p31)であり、またもうひとつは小さな突起状台地、島状の独立した丘に飛び地のように大名屋敷ができ、それを追いかけて谷間の百姓地が町人地へ転ずる」、いわば「複数の核が分散する形」(p32)であったが、これらもまた文脈としての台地と谷地の関係性―武家地と町人地の住み分けと相互に支えあう関係―を踏襲していった。さらに、この「城下町特有の住み分け応じた地区のあり方」(p34)は、陣内によると東京に受け継がれ、いまだに「それぞれの場所の個性を演出している」とのことである。

 次に、第二の下町における都市形成の原理であるが、陣内によると、下町を既定していたのは「水の都」としてのその特性であるという。具体的には、下町の場合「水を立地の拠り所としている」(p127)ということだ。下町とは、江戸の東部、埋立地を基盤に発展していったわけであるが、それは「中世以来の江戸湊の交易商業活動が母体となって生まれたもの」(p112)であると陣内は主張する。そういった、文脈のうえに計画的な運河・掘割のネットワークづくり、そして大規模な土木工事が行われ、結果として「物資の輸送・流通のほとんどは水運」という江戸の特徴が形成された。いわば、「江戸・東京の産業」は「水系を中心に発達」(p118)したわけであり、「江戸下町の掘割・水路は、将軍のひざもとの人口百万を優に越す大消費都市の経済を支える大動脈」(p112)として機能した。

 また、日本の伝統的な文化的シンボリズムによると水とは非日常性と結びつくシンボル的な意味合いにおいてみられるものであり、実際江戸の名所といわれるような場所の多くも「地形と密接に結びつき、<山の辺>か<水の辺>につくられた」(p126)とのことである。また、宗教空間もまた地形の影響を受けて設置された。実際、江戸においては「宗教的な空間は、都市の少し外側、ふだんの商業活動、生産活動の地、あるいは居住地の少し外側につくられたという傾向がある。」(P130)のである。それは、日常と非日常の分離(ケ、ハレ)という考え方に基づいている。すなわち、非日常的な水に周辺は、いわば世俗権力や日常性に対して「アジールの性格」を持っており、結果として江戸における多くの宗教空間は水辺につくられた。また、同時に盛り場、芝居小屋、遊郭などの遊興施設もまた、非日常に属するものとして水辺に多く設置された。つまり、江戸の都市は「健全で日常的な「制度化された空間に対し、その周縁や背後に欲望を満たす非日常的で祝祭的な「自由な空間」をあわえもつという、独特の」(p149)偏心的都市構造において成り立っていたいえる。

また、下町を規定するもうひとつの原理として、その町割りそのものが、「雄大な大自然との関係を強く意識」した「壮大なスケールの町づくり」(p178)という観点からなされていたということがいえる。すなわち、陣内によると日本の都市には、都市内部と外に広がる自然風景との間に緊密なやりとりが見られる」(p179)わけであるが、江戸の場合、それは富士山と筑波山をランドマークとした都市設計であったといえる。すなわち、「江戸の下町は、後に開発された江東地区を除けば、格子状プランをとりあんがらも、いずれもが南北―東西の向きから大きく振れて」(p180)いるわけであるが、それは富士山と筑波山をランドマークとしてつくっているということが言えると陣内は主張する。つまり、江戸の都市はそういった壮大なスケールにおいても、自然の原地形との対応関係において建設されており、それは西欧の求心的構造において形成される都市とは対照的に、いわば遠心的構造において成り立っていたのだといえよう。

 また、これらの上からの都市形成の原理に加わり、ミクロな形での生活空間における日常の蓄積も、江戸の下町の形成においては大きな影響をもたらしていた。それは、陣内によると「細やかな人間尺度の空間」(p182)の形成に他ならない。つまり、江戸においてはまず、「濠、水路や枡形、木戸などにより、物理的に「機能的にも視覚的にも空間が完全に分節」(p182)されていたが、その与えられた区分の内部において、人びとは「近隣の相互扶助の精神による一定の自治をもちながら、安定した社会を支える基盤(p184)、つまり横丁社会的なミクロな都市空間をつくりあげていったのである。

 さて以上が東京の前身としての江戸の形成であった。一方で、明治以降の東京の都市計画は、基本的に江戸の遺産を破壊しつつ食い潰しながらのものであったという視点が陣内にはあると思われる。まず、明治以降の新たな道路体系の整備や市区改正は既存のミクロなまとまりを破壊し、また、いわゆる都市の「臓腑空間」は追放され続け、現在の東京特有の無数の地下街の誕生へつながった。

 一方で、明治の公共建築は江戸の遺産を活用して行われた。すなわち、多くの公共建築は「大名屋敷の跡地を器として活用」(p210)し、また「敷地を塀で囲い、門をがっちり構えて建物のまわりに庭をとる、という伝統的な屋敷を構える意識」(p230)もまた継承された。一方で、そうした敷地の中に西洋風建築物の<軸線>、<シンメトリー>などの構成が輸入されたわけであるが、陣内によるとそれは「江戸時代の神社や寺院などの「宗教空間」構成に類似」しており、「周辺に広がる世俗の市街地や住宅地とはまったく異なるハレの場を形づくるための象徴的な空間構成」(p244)が江戸から継承された結果、「ヨーロッパの都市の中枢部分では決して見られない、塀で囲われ緑を取り込んだ庭を持つ官庁、大学をはじめとする公共的な建築」(p247)のではないかとのことである。

 しかし、総じて言えば、陣内によると明治の都市計画は、皮相な西欧建築や都市計画の模倣にとどまり、いびつなものであったという。それが、改善されるのは大正、および昭和初期である。そこでは「市民生活の向上に重きを置いた都市生活」(p251)、「美や快適性…、そして社会生活を追及する意識」などが誕生した。その時代においては「立地条件をたくみに読みこんで設計され、見事な都市空間を生み出すのに貢献しているすぐれた建築が多い」(p269)とされ、ゆえに陣内は大正・昭和初期を、いわば、「今日の東京の都市景観の原型」が形づくられた時代としている。

 さて、本書は江戸から明治、明治から昭和、そして現在に至るまで東京のあり方とその変遷を、江戸という文脈を基層に位置づけることによって、歴史的に叙述している著述であると言えよう。すなわち、本書の論旨の要点のひとつは、東京を見る際には、それを江戸の延長としてみていくのだという発想の提案であろう。いちおう、『東京の空間人類学』と銘打っており、実際、明治以降のこの都市の「東京」としての歩みについても触れてあるが、しかしながら、やはり、本書の中核にあるのは東京を理解するうえでの文脈の根底にあるものとしての「江戸」の描写であるという感想を筆者は持った。

 決して体系的に議論されてはいないが、陣内の思考の根底においては既存の文脈を無視して、結果として過去の遺産を破壊し、食いつぶすだけの「近代都市計画」に対する問題意識があると思われる。それは、陣内のように江戸の延長という文脈を中心に東京をみていくのだとしたら、それは当然の方法論的帰結であると思われる。しかしながら、一方でなぜ明治以降、為政者たちがその「文脈」を無視した都市行政に至ったかという考察が少したりないのではないだろうか。江戸から東京への距離は、そのまま時代としての江戸から明治への大きな歴史的断絶を象徴していると思われる。はたして、前近代的な封建社会の首邑としての江戸の遺産が、そのまま近代都市への変貌を歴史的に余儀なくされていた東京においてそのまま活用が可能だったかどうか―陣内の批判が妥当であるためにはそれが必要条件なわけだが―は、陣内の議論からは読み取れない。


 しかし、総じて言えばこの『東京の空間人類学』は、われわれが日常生活において見落としてしまうような東京の文脈を指摘してくれるという点で、非常に刺激的な名著であると筆者は思う。

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