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杉本苑子 『風の群像―小説・足利尊氏―』  

 このとき尊氏は登子と差し向かいで、朝食をしたためていたが、

「昨夕、疎石禅師を招じて戒を受け給い、三条殿にはいさぎよくご落飾(筆者注:髪をおろし、出家すること)あそばされました」

 細川顕氏の報告に、

「な、なに、直義が様を変えたと?」

 箸をとり落とし、無意識のように立ち上がりかけて、こんどは飯椀までをポロっと手から離してしまった。中身は白粥だったから、たちまち袴がべとべとに濡れる…。

「お拭きいたします。お待ちあそばせ殿、……殿ッ」

 登子の越えも耳に入らぬのか、足をふらつかせながら仏間にのめりこみ、一ッ時近く尊氏は出てこない。咳ばらいひとつ、物音ひとつ聞こえないので、顕氏は心配になり、

「お館、ご気分でも悪うござりますか?」

 仏間の暗がりへ、小声で呼びかけた。

「小四郎か。案じるな。中へはいれ」

 身じろぐ気配がし、尊氏のかすれ声がうながした。

「むかし書いた古反故を見ていたんだ。読んでみろ」

 と、折りたたんだ紙片を投げて寄こす。

「拝見します」

 膝の上に広げたが、塗籠様に造られた仏間は、灯明がともっていないと本尊のお姿さえおぼろげなほど暗い。身をねじって出入り口からの外光をたよりに、細川顕氏は紙面の文字を目でたどった。

「この世は夢の如くに候。尊氏に道心賜ばせ給い候て、後生助けさせおわしまし候べく候。なおなお疾く遁世したく候。道心賜ばせ給い候て、直義安穏に、護らせ給い候べく候」

 日付は建武三年八月十七日。宛名は清水寺。尊氏の署名の下に花押が添えてある、折り皺の寄った虫くいだらけの、願文の下書きであった。

 「建武三年の八月といえば、新田・楠木の支えを湊川にやぶり、破竹の勢いで再上洛をはたされた年ではありませんか。遁世をしたいの、後生を助け給えのと、そこらの糊売り婆さんみたいな愚痴を、なぜ並べておられるのか…」

 「自分でもわからん。なにせ十二年も前に書いたものだ。戦勝の高揚が、おれの若気の感傷を、逆に刺激したのかもしれぬが、楠木兄弟の首を見たのが直接の引き金になったのではないかと思う。判官正成は篤実な人だった。敵味方に分かれさえしなければ、終生、心を許し合える友として交誼が結べたと思うと、その死が惜しまれてならなかった。…でもなあ小四郎、十二年後の今、この文面を読み返しておれが胸をえぐられるのは、直義への情愛の、純粋さだ。嘘いつわりはみじんもない。十二年前のおれは、心から『直義安穏に護らせ給え』と清水の観音に念じたんだ」

 こみあげてくるものを抑えようとしてか、尊氏はぎりぎり歯をくいしばった。
 
 「それなのに今おれは、直義を窮地に追いつめ、ついに世捨て人の境涯まで叩き落してしまった。そんなつもりはないのに、いつのまにかそうなってしまったんだよ小四郎、教えてくれ、どこでいつ、食い違った歯車なのか……」

 細川顕氏の両手をにぎりしめ、自身の手ごと目に押し当てると、子供さながら身もだえて、尊氏は号泣し出した。



『風の群像―小説・足利尊氏』〈下〉 p182~184
 人間的、あまりにも人間的。

 救われがたい自らの愚かさに悩み、苦しみ、もがくのは英雄とされている人々も同じ。

 権力への執念、近しい者への盲愛、追い落とされる恐怖、良心の咎め…むしろ、手にする力が大きければ大きいほど、苦しみの度合いは増えるのかもしれない。

 そうした人間の業を克明に、しかも共感をこめて生々しく描くことにかけて、杉本苑子の右に出る作家はそうはいない。

 足利尊氏は難しい題材である。人物としてもそうだが、彼の生きた南北朝から初期室町の混迷が厄介だ。昨日の見方は今日の敵、親子兄弟入り乱れて離合集散する上に、天皇家までが京都と吉野に分裂。騒乱の時代だが、対立の軸が見えてこない。

 この混乱の一因は尊氏の一貫性のない行動。彼は源氏の名門、足利家の当主として多くの一族郎党の上に君臨し、そのおおらかな人柄と武将としての力量により全国の武士階級を惹きつける。しかし、一方でその甘さにより宿敵後醍醐天皇にとどめをさせず戦乱を長引かせ、疑心暗鬼と息子への盲愛で一族を分裂へと追い込む。

 杉本の描く尊氏は、英雄としてはあまりにも人間的で、滑稽。生々しく悲劇的だ。そして、まさに、その人間臭さが、おそらく足利尊氏と言う人間の魅力であり、最大の欠点だったのではないか。そう、読者に思わせる説得力が、ここで描かれている尊氏像にはある。

 一見、史劇としての痛快さや壮大さには欠けるかもしれない。しかし、安っぽい脚色と過剰演出を排除した杉本の写実的なまでの人間描写は、凄惨な迫力をもって読者に迫る。彼女が綴る歴史絵巻には超人や英雄は存在しない。そのかわり、ちっぽけで健気な人間たちの汗のにおい、血の通った喜怒哀楽で色彩豊かに彩られている。

 愚かで無責任、でもどこか憎めない「人間」尊氏との出会いが本書にはある。悲しいまでの愚かさと深い業、読者は共感を覚えながらいつしか尊氏を中心に繰り広げられる人間模様に引き込まれていくだろう。


風の群像―小説・足利尊氏〈上〉
杉本 苑子
4062649950


風の群像―小説・足利尊氏〈下〉
杉本 苑子
4062649969

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