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常不軽菩薩 

 また、法華経には「常不軽菩薩」というフィクションの菩薩(前世の釈尊という設定)が登場する章があります。この菩薩は、出会う誰彼にも等しく申します。

 「おんみらよ、わたしはおんみらを、けっして軽んじない。おんみらは皆、菩薩道を行じて仏となる人であるから―」と。

 これを聞いて人々は怒り、瓦石を投げ、あるいは飛びかかって、棒などで彼をなぐろうとします。彼はこの難を避け、遠くから、また同じ呼びかけを続けます。

 「常不軽」とは、「常に(他を)軽んじない」という意味です。他を軽蔑しない理由は「誰もが仏となるはずの人」であるからです。人間に限らず、一切の存在が、仏性を持っているとする「悉有仏性」の思想を人格化したのが、常不軽菩薩であることは明らかです。

松原泰道 『法華経入門』 p184
4396102208法華経入門―七つの比喩に凝集した人間性の真実
松原 泰道
祥伝社 1983-01

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 先日、我が家で鍋をやった。

 その際、来ていた友人の一人がなかなかの難物。とにかく、分析能力が鋭いのと、心根が高潔なもので、とかく自分に対しても他人に対しても極めて厳しい。

 そんな彼をからかう意味合いで、ある遊びを提案した。

 それは、苦手な人の長所を10個交代で挙げていって褒めるというもの。

 最初は、純粋に面白半分で提案したものの、これが意外と面白い。論評する相手によっては、彼よりもむしろ自分の方が悶絶する羽目になった。いやはや、本当に何を褒めたらいいのかわからない相手というものは、確かに存在するもの。そして、なかなかに、自分の気持ちにウソはつけない。

 しかしながら、そうは言いつつない知恵を絞って彼・彼女のよいところを探してみると、意外にあるもの。また、正直うざったいなと思っていた欠点が、他の長所と組み合わせて見ることにより、ずば抜けた長所の現われであることに気づいたり。

 たとえば、僕はある人がずっと内心苦手だった。何かと、細かい愚痴が多く、おせっかい焼きで、とにかく一緒にいてイライラするのだ。けれど、そのゲームをしてみることによって、その人がすごく気遣いのでき、また忠実な人であることがよくわかった。「あ、実はいい人だったんだな」と生まれてはじめて、実感。

 あら捜しというものは、本当に簡単。簡単だし、なんとなく気分がすっきりする。また、なにより、自分が偉くなった気がする。だから、われわれは無意識のうちに、極めて安直に他人の欠点を探す癖がついていないだろうか?

 よく、何か本や映画の感想を聞くと、しばらく難しい顔で考え込んだ挙句、「こういう部分がちょっとおかしかった」、とか、「こうだったらもっとよかった」とそれの欠点をあげてくる人がいる。まず、何か批判しなければ格好が悪いと、どこかで思い込んでいるのだろう。何か、そういう人はすごく人生において損をしている気がする。

 (そういえば、いろんなブログのコメント欄を見ていると、たくさんいますね、そういう人 笑)

 さて、本題の常不軽菩薩。

 人は見えるものを見ているのではない。観ようとしているものを観ているのだ。また、聞こえるものを聞いているのではない。聴こうとしているものを聴いているのだ。(カクテル・パーティー効果とはよく言ったもの)

 そのように、不思議なもので、同じ人を見る上でも、悪意をもってみれば悪いところばかりが観え、愛をもって見ればいいところばかりが観える。

 ましてや、その人の魂の根源にある仏性(仏になれる可能性の種子)などは、観ようとしなければ観れるものではない。また、世界にあまねく満ちている神の恵みと導きも、観ようとしなければ決して観えない。それらは、誰にでも見えるにもかかわらず、人の心が観ようとしないゆえに観ることができない。

 曇りなき眼を持つ人がありのままの現実を見れば、おそらくあらゆる宇宙の営みには等しく神の霊感が生き生きと鼓動し、あらゆる人は神聖であり不可侵な神の御子に見えるであろう。どのような一見救いようのない人間でも、その魂の奥底に着々と芽吹き、成長しようとするひかりの種が撒かれていることに驚き、ただ感謝し、手を合わせたくなる。きっと、ありのままの世界はそういうものなのだと思う。

 カントの言い方を真似れば、人は「物自体」を直接認識することはできず、あくまで眼や耳といった感覚器官を通して自らの心に映ったものを観る。人は、その人に合った見方で、ありのままの現実を切り取り、ゆがめて認識するのだ。

 悪意、軽蔑、嘲笑、非難、怒り…そういったものに身をゆだねる前に、少なくとも人間にはその人の器量にあったものしか見えないということは肝に銘じておきたいものだ。

 願わくば、あらゆる人に対して合掌・礼拝し、いまを生きることの喜びを賛美し感謝することができるになりたいもの。とりあえず、難しい話はさておき、同じ生きるのなら、ぐだぐだと非難しつつ嫌なものを見ながら生きるよりは、美しいものを見て楽しく生きたいもの。

 そのためには、まず日常的に褒めることから始めたい。感謝する癖をつけることから始めたい。

 そんなことを思う、今日この頃である。
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