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裁く眼差し、愛する眼差し 

 さて、イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家におられたとき、一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。」イエスはこれを知って言われた。「なぜ、この人を困らせるのか。私に良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」

マタイ書 26章6節~13節

4820212117聖書―新共同訳
共同訳聖書実行委員会
日本聖書協会 1996-10

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 彼らは、その行為の向こうにあるものを見なかった。

 よく我々は言う。

 「効率悪すぎ」

 「ってゆ~か、無駄。」

 「馬鹿じゃね?」

 「うっとおしいんだよね」
 
 他人の行為やことばの上っ面だけをとらえて、一喜一憂し、時には怒り、時には悲しみ、結果としてその人とすれ違ってしまう。自分はよくそういうことをする。

 結局のところ、それは上っ面を見るだけで安直に判断し、裁こうとするから。その行為やことばの背後にあるものを見ようとしないから。上っ面を突き抜けて「見る」だけの関心を相手に持っていないから。

 つまるところ、そこに「愛」がないから。

 起きたことは目に見える。及ぼした効果も目に見える。しかし、見ようとしなければ見えないものもある。

 そして、それらを見過ごしてしまうと、人間のあらゆる営みは、結局のところ壮大な無駄でしかない。

 見過ごしてしまうもの、それはその行為の背後にあるその人の想い。その人の気持ち。その人の愛。
 
 弟子たちの言い分は正しい。それは正論だ。明らかに、女の行為は無駄。高価な香油を売ったお金で貧しい人びとに施せば、どれほど多くの者が救われただろう。

 しかし、一方でこれを買い求めるために、女はどれだけの代償を支払ったことだろう。なぜそんなことをあえてしたのか。弟子たちには、その行為の先にある彼女の気持ちを見ようとしない。ただ、イエスだけがそれを見た。見ようとした。

 「人類?そんなものは抽象名詞にすぎない」と言うのは、確かゲーテのことばだったか。そして、一方で、『カラマゾフの兄弟』には、イワンがアリョーシャに向かって「人類を愛することはたやすいが、それが目鼻のある人間になると途端にそれが難しくなる」といったようなことを告白するシーンがあった。

 「貧しい人びと」には顔がない。声もなければ、名前もない。かわいそうな「イラクの人びと」、「ホームレスの人たち」「アフリカの恵まれない子供たち」、そういった人びとにも顔がない。

 彼らを救わなくてはいけない。これは正論だ。しかし、同時に最も空虚なことばでもある。そこには、愛が働く余地がない。顔も名前もない者を、われわれは愛することはできないからだ。

 「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」

 イエスとて、弟子たちが賢しらに掲げる「正義」については
百も承知だったろう。しかし、彼はそれを見つつ、更にその先を見た。「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいる」、このことばのなんと痛烈なことか。施すべきは、どこかにいる不特定多数の「貧しい人々」ではなく、「いま」あなたの手の届くところにいる、顔の見える「貧しい人々」なのだ。

 そして、「いま」、目の前にいる人は「いつも一緒にいるわけではない」。愛は「いま」を共に生きる者にしか働かせることはできない。

 女は高価な香油をイエスの頭に注いだ。

 それは、無駄な行為だったかもしれない。

 けれど、彼女はイエスを愛した。イエスがそれを必要としていると思ったから、油を注ぐことによって、彼女は自らの愛を示した。いま、目の前にいる愛する人を全身全霊で愛した。愛する人が必要とし、なおかつ自分の与えられる最善のものを彼女は捧げた。そして、イエスはそれによって癒された。

 そして、彼女はそんなことは知りもしなかったろうが、それは結果としてイエスを「葬る準備」となった。神は、「正義」を説く弟子たちではなく、愛を捧げたこの女を選び、その大任と名誉を授けた。その事実を真摯に受け止めたい。

 我々は、人の行為、そのことば、それらの「背後にあるもの」へのまなざしを閉ざしてしまうことがある。「背後にあるもの」は目に見えない。それは、見ようとしなければ見ることができない。

 「愛」はありのままの相手と向き合うことから始まる。相手の「背後にあるもの」を「見ようとする」ことから始まる。愛なき眼は愛を見ることができない。そして、自分に示されているあふれるほどの愛を見ることのできない人生は砂漠に他ならない。どれだけの愛を注がれても、それは自らが愛した分しか味わうことができないから。

 うん、わかるよ。

 正義を振りかざして裁く前に、相手の背後にあるものを常に見るようにしたい。それがどんなに吐き気を催すような相手でも。それを可能にするのは、あらゆる上っ面を突き抜ける「愛」のある眼差し。

 本当に裁かねばならぬような人は、そう多くはないはずだ。
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コメント

小さな自分が‥‥

今のわたしの気持ちと重なっている部分が多く、うなづきながら拝読して、そしてこの記事によって癒された心地もしました。
ありがとうございます。^_^

相手の真意を受けとり、わたしの真意を伝えるというのは、難しい面がありますね。
ましてや、相手の真意が、「愛」からではなかったと悟ったときは、それはショックなことで、ふと、こちらのほうも愛を手放したくなります。

真意を見逃す相手すら許し、愛してゆくことの難しさ。
でも、そこで、やっと、本当の意味の「信仰」が問われるのかもしれないと思えます。

愛しやすい人を愛するのはたやすい。
話しの合う、愛しやすい人と戯れるのは確かに癒しだけれど、それだけでは内なる愛の力は育めない。
本当に、愛が育つのは、今、目の前にいるその愛し難い人を通じて‥‥なのかもしれません。
というか、それしかないような気がします。

小さな自分が、精一杯裁くのではなくて、精一杯愛する。
何が現れ出ても「わたしはそれを愛します」という勇気。

自己責任

>mi-keさん

 お返事遅くなってごめんなさい。(毛唐スパマーの猛攻撃を受けて、だいぶうんざりしてたのです 笑)

 そして、素晴らしいコメントをありがとうございました。

 結局のところ、自分に見えているもの、その見え方は自己責任なんだなぁということを最近思います。

 不幸な人というのは、たとえ晴れた日にさんご礁にもぐらせてみても魚の糞やら海草やらが気になって仕方がないだろうし、しあわせな人は団地のゴミ捨て場でも、隅のコンクリートを割って生える小さな花に心うたれるのでしょう。

 ようは、何を見ようとしているのか、その姿勢は完全に自己責任なんだなぁということを強く感じるんですね。

 だから、どうしても愛せない人というものに遭遇したとして、(そして僕の場合はかなりの頻度でそれはあるのですが)、それは結局自分が悪いんだなと思っていれば何より気楽ですよね。まぁ、ようするにいまの自分には「ムリ」、ゆえに悪いけどあんたのこと嫌いだよとサラッと邪気なしに言える。まぁ、300回生まれ変わる頃には、きっとあんたのことも愛せるようになるだろうさと。(笑)

 そんなことを思います。

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