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神さまに癒された彼女は、まずもてなした 

イエスは会堂を立ち去り、シモンの家にお入りになった。シモンのしゅうとめが高い熱に苦しんでいたので、人々は彼女のことをイエスに頼んだ。イエスが枕もと立って熱を叱りつけられると、熱は去り、彼女はすぐに起き上がって一同をもてなした。 ルカ書 4章 38-9節


4820212117聖書―新共同訳
共同訳聖書実行委員会
日本聖書協会 1996-10

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 ずっと読み飛ばしていた箇所。少し気にかかったので、考えてみる。

 実に単純な話。イエスが病人を癒した。そして、癒された者が立ち上がり彼らをもてなした。ただ、それだけのこと。

 だけど、この話にはある種の霊的な真実がある気がする。

 イエスに癒された彼女が最初に行ったことは、もてなすことだった。

 相手に喜んでもらうために工夫をこらす。いまの自分が捧げられるものの中で、最も相手に喜んでもらえるものは何か、そんなことを考え抜く。それが、もてなすということ。

 そして、なぜもてなすのかといえば、それはその相手が大切な人だからに他ならない。大切な人だから、「喜んで」欲しい。その人が喜んでくれると嬉しい。だから、もてなす。

 与えるということは、嬉しいこと。

 喜んでもらえるとは、嬉しいこと。

 だって、そのことによってあなたの大切な人がしあわせになるから。

 心が病み、魂が神さまに背を向けると、第一に忘れてしまうもの。それは、愛するということの喜びが、受けることよりも与えることにあるという事実。

 人の心には、二種類のあり方しか存在しない。湧き水として存在するか、胃袋として存在するか。

 魂が神さまと向き合ってる限り、人の心は決して尽きることのない、いのちの湧き水として存在する。自分と神さまを見失うと、湧き水は枯れ、ブラックホールのようにあらゆるものを引きずり込もうとする巨大な胃袋となる。

 人と人との関係にも、究極的に突き詰めれば二種類のあり方しか存在しない。与えるか、しがみつくか。信じて委ねるか、縛り付けるか。慈しむか、管理するか。向き合うか、決め付けるか。問われるべきは、そこに愛があるかどうか。

 見分けるのはきわめて簡単。

 「あなたはその人に喜びを与えていますか?」

 本当の深みから誰かを愛するとき、湧き水はあふれ出し相手の心を隅々まで満たしていく。反対に、湧き出でるものが無いときは、相手をそのぽっかりと空いた虚無へと引きずり込もうとしがみつく。
 
 イエスが癒した。

 病人は「起き上がって一同をもてなした」。

 身体が癒えるだけでなく、彼女の魂も癒された。

 そして、おそらくイエスは喜んだ。
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