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ゼミの合宿に行ってきました 

 ゼミの合宿から帰還。

 絶景の富士山とサウナ・温泉に涙。食事も美味しい。

 
 それにしても、学部生ながらそうとう問題意識も高く、また能力も充実した人が多いのにびっくり。また、総じてみんな気のいい連中だったので、久々に部活の合宿に行ったようで楽しかった。

 いやはや、後進侮り難し。

 ただ、少し気になったことがひとつ。

 一言でいうと、頭でっかちな考え方をする傾向が見られること。

 頭でっかちというのは、まず理論ありきという発想。

 分析対象の現実を見据え・観察することよりも、現実を理論にあわせようとする傾向が見られる人が多かったのが、とても気がかり。

 一般的に社会科学における理論やモデルといったものは、それが精緻で純度が高くなればなるほど普遍的妥当性を高める一方で、リアリティから遠ざかるもの。

 人間の営み全般に通用する普遍的な法則を探し出すことが社会科学の目的ではないはず。そうではなくて、あくまで特殊な、個別的なケースについての判断の助けとなるような知のあり方を模索すること、それが社会科学の科学たるゆえんであり、矜持であるべきだと自分は思う。

 「市民」であったり、「大衆」であったり、「資本主義」であったり「自由市場」であったり…そうした概念の一人歩きが、あたかも人間事象が自然科学のように論理的にすっきりと説明し得るという驕りを時としてもたらす。それは、社会科学に携わる者は魅力的な誘惑であるが、いうならば「アカデミックな思考停止」をもたらす麻薬でもある。

 さいわいなことに、合宿で出会った学部生の人たちはみんなそれぞれ自分自身の身近でリアルな問題意識を大切にして、そこから物事を考えようとする姿勢をもっていた。そうした、頭でっかちな傾向が見られるといっても、極めて度合いとしては軽微なもの。

 ただ、目の前の現実が学者の屁理屈と合致しない、もしくは不整合を示すとき、彼らがどういう反応を示すのか…それが少し気になったのだ。本来は、そういった瞬間こそが自発的な理論化をはじめるチャンスであるはずなのだが、どうも真面目に考える人ほど、既成の理論を現実に優先する傾向がある気がする。

 それではいけない。

 あくまで分析しようとする現実を見極めたうえで、既存の理論を参考にする…このプロセスが逆になると目も当てられない。そして、そういうサングラスをかけたまま「世界は暗い」とのたまうような人びとが、学会や論壇にいかに多いことか!

 リアルで直接的な問題意識を大切にして欲しいと思う。

 あくまで、目の前の現実、自分が分析しようとしている現実から始めるという姿勢を保って欲しいと思う。

 自分はアカデミックな才能には恵まれなかったみたいだけど、若い人たちはまさにこれから。彼らの将来に期待すると共に、一抹の危惧をどうしても抱いてしまう。そして、相変わらずの自分の心配性とおせっかいに思わず失笑。

 どうにかなるものはどうにかなるし、ならないものはならない。

 ただ、それだけ。

 さて、ゆっくり寝るかな。
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コメント

寝太郎さん、アカデミックな才能に恵まれなかったのですか??
これだけの文章を書ける人が?

アカデミックな理論というのはどうしても机上の空論になりがちですね。
でも、それもいいのではないかという気がします。
学問ってそんなものでしょう?

>はんなさん

 あるいは、たぶんそんなものだからイマイチ自分はのめりこめないのかもしれません。

 それから、結局自分の興味関心は究極的に自己中なところがあるのかもしれません。

 真理だとか、そういうものよりも、まず自分自身を知りたい。そういう方向性が自分にはある気がします。

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