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書評 杉田敦 『境界線の政治学』 

境界線の政治学
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杉田 敦


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総評

 現代の政治的問題の根底にある「境界線」の絶対視という思考形態に対する極めて鋭い分析。読者は、日々の生活において、これまで意識することのなかった、国境や文化、さまざまな組織などについての自らのものの見方を振り返る機会を与えられるであろう。また、文章としても非常に怜悧かつ論理的に整理されており、とても読み易い、まさに読ませる文章である。


 
「われわれは政治について考える中で何らかの単位に言及することは避けられないし、結果的にある単位に深く関与することになる場合もあるであろう。しかし、それは、どのような単位を選べばどのような帰結になるかを、可能な限りノミナリスティックな立場から検討した上で判断されるべきであるし、一旦ある単位を選んだ後にも、そのことの実践的な意味を絶えず問い続ける必要がある。政治理論が今直面している課題は、国家からの「解放」ではなく、われわれの想像力を縛る一切の境界の開放である」(p52 強調筆者による)


 文明、文化、国境、企業、大学、組織、共同体、グループ、友人の輪、そして家族…生きる為に我々はさまざまな線引きを行い、中と外を区別する。それは大切なものを護るためであり、自分自身の居場所をつくる為である。一方で、「隣人へのきみたちの愛の償いをするのは、より遠い者たちである。かくて、きみたちが五人いっしょにいるというだけでもう、つねに六人目は死ななくてはならない」というあらゆる線引きに暗黙のうちに潜む、排除の論理がある。これは杉田が本書の第二章の冒頭で引用する、『ツァラトゥストラかく語りき』の一節であるが、ようするに人と人の間に線を引くということは、は護るべきものとそうでないものを区別することであり、また自分の場所から異質な他者を排除する営みでもあるということである。人と人とを、内と外を分けるもの…これが杉田の言う「境界線」であり、そして政治とは本質的に境界線を引く行為であるというのが杉田の主張である。

杉田の本著における理論的視座をもっともよく表現しているのが、冒頭に引用した箇所ではないかと思う。彼の境界線に対する態度は非常に含みがあり、そこに物事の単純化を許さない―複雑なものをそのありのままの複雑さにおいて捉える―良質な思考の痕跡をみることができる。境界線を引くことは、すべての政治的行為に暗黙の内に内在している行為だが、当然その行為におけるメリット・デメリットは存在する。例えば城壁は、その中の人びとを護る一方で、内と外という形で人間を区切る行為でもあり、それは結果として外部の人びとの排除につながる。或いは日本国籍という境界線も、日本人の身体や人権を護り、また豊かにする働きを持つ一方で、非日本人を排除し、また彼らに対する人道的な責任を廃棄する働きを持つ。友人という境界線は親密な間柄におけるつながりと助け合いを保証する一方で、友人でない、いわばどうでもよい人びとの存在を暗黙の内に前提としている。つまり、杉田のことばで言うならば、境界線を引くという行為は「線を引いて、ある人々を囲い込み、その人々を対象と」し、「線の内部を最適化するために、さまざまなノイズやリスクは外に放り出す」(p173)ことによって成立する。言ってみれば、それは非常に両義的なものであるといえる。

 そういった冷徹なまでにリアリスティックな境界線に対する捉え方は、「ゆえに境界線は廃棄されるべきである」式の安直かつ無内容な結論に直結しない。この杉田の姿勢に非常に好感を覚える。境界線そのものの本質は、善でも悪でもない。それは、単に人間の本質的な実存様態としての政治に必然的に伴うものであるというだけである。だから、問題の本質は境界線というものの是非というよりも、むしろ現実に実在する諸々の境界線の起源の偶然性・人為性が忘却、或いは故意に目を背けられ、絶対視されることから来る人びとにおける「想像力の縛り」であると杉田は喝破する。結局のところ、そういった境界線を絶えず相対化し、その妥当性を、それが護るものと排除してきたものに対する厳密な事実認識に則って考えていかなければならないというのが杉田の主張ではないだろうか。
 
 今日的視座における、政治的問題の多くは、結局のところ硬直した境界線絶対視が一役かっていることがほとんどではないだろうか。特に、地球規模の貧富の差や発展途上国の地域紛争…理論上、また数字のうえでは先進国がそれらに対する抜本的な解決を施すことはきわめて容易であるにも関わらず、まったく解決される目処が立たないのは、要は先進国が本気そういったグローバルな問題を抜本的に解決しようという意図がないからであり、そこには既存の境界線に縛られた思考停止が見られるといったら言い過ぎであろうか。また、いわゆる一国平和主義、歴史問題、反日問題、靖国問題…こういった問題の根底にもわれわれが無批判に受け入れてきた「境界線」の問題があるのかもしれない。

 これは本人のことばであるが、9・11のインパクト以降先進国で漂いだした不安感には、「人々が当然と見なしてきた政治的枠組みが、もはやその自明性を失いつつある。」(p)という現象がある。そういった意味で、本書における「境界線」一般についての杉田の思索は時代の要請に対する学問の立場からのきわめて実践的かつ現実的な応答として評価されるべきではないだろうか。また、本書の論旨の主軸ではないものの、戦後平和主義やいわゆる市民社会論についての非常に鋭く、かつ適切な批判があり、この点も評価したい。

 構成としては6章構成。最初の2章の焦点は「境界線」という政治事象についての抽象的・理念的思索と概念化であり、残りの4章は、その枠組みを用いてのアクチュアルな批判、特に境界線の内部での同質化・均一化によってもたらされる共存するという考え方やマイケル・ウォルツァーの正戦論に対する批判であり、内在的考察である。




 実は僕、結構この人の文章好きなんです。あるフォーラムで、一度杉田さんとテーブル挟んで向かいの席に座るチャンスがあったんですね…ところが、なんかすっげぇ怖いんです。(笑)結構、気さくないい人らしいんですが、なんか雰囲気がいかめしいというか、シニカルな微笑みを浮かべつつずで~んと構えてる感じですかね。なんやかんやで、萎縮してしまい、結局話しかけられずじまいでした。トホホ。

ネット上の書評・関連記事など

杉田敦 「主権・境界線・政治」
宮崎哲弥
俺の好きなように打たせろさん
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以下抜粋
「重要なことは、境界線は人々の頭の中にあるのであって、どこかに物理的に存在しているわけではないということである。」p20

「ここでは、次のことを確認しておきたい。境界線を広げることによって境界線を廃止しようとすべきではなく、境界線の存在を意識することによって境界線を相対化すべきである。これは、破線の境界線を想定する自由主義が正解であるという意味では必ずしもない。すでに示したように、自由主義は、自らのゲームの周囲に必ず生じる境界線については無自覚だからである。そうした境界線も含め、境界線がつねにあることを認めつつ、いかなる境界線も絶対的なものではなく、変えられるものであると考えること。境界線を消そうとするのではなく、それに対して距離をおくこと。政治の外に出ようとしても無理であり、政治のなかにとどまるしかないことを認めること。こうしたことが、さしあたり求められているのではないだろうか。」(p24)

「しかし、国民という単位の特権化という選択肢は、二〇世紀における国民化権力の歴史を知るわれわれにとって、そして長期にわたる国民化を経てなおその内部に残る多様性や、さまざまなマイノリティ集団の自己主張を知るわれわれにとって、もはや無邪気に採用できるものではないであろう。それでは、国民という単位に還る以外に、かといって、単に自由主義や「アイデンティティの政治」を推し進めるのでもなく、われわれの採りうる道筋というものはあるのだろうか。それは全くさだかではない。しかし、さしあたり明らかにしておきたいのは、ある単位を相対化するため別の単位を対置するという従来の戦略自体が問題にされなければならないのではないか、という点である。なぜなら、そのような戦略を採用すれば、どの単位を特権化するかのゲームに巻き込まれてしまうかれである。特権的なのは国民なのか、結社なおか、エスニック集団なのか、ジェンダーなのか、階級なのか、それとも、それ以外の何かなのかというゲームに。そして、われわれは「群れ」の呪縛から逃れることはできなくなる。」p50

「…われわれが政治について考え始める時に、当然にある特定の単位を前提とせざるをえないとし、しかもそれで良いのだとするような…考え方自体が問題にされなければならない。いかなる単位も歴史的な存在という意味では偶然であり、何らかの権力作用の所産という点で人為的なものにすぎないからである。人が政治について考える際に、自然な前提として良いような単位は何もない。国民だけが人為的なのではなく、結社も、グローバルな単位も、さらに言えば「個人」もまた主体化の所産として人為的である。そのような単位の一つを議論の前提という形で導入し、そうした単位が外部に対してもたらしうる暴力を意識しないような政治理論のあり方が問題…われわれは政治について考える中で何らかの単位に言及することは避けられないし、結果的にある単位に深く関与することになる場合もあるであろう。しかし、それは、どのような単位を選べばどのような帰結になるかを、可能な限りノミナリスティックな立場から検討した上で判断されるべきであるし、一旦ある単位を選んだ後にも、そのことの実践的な意味を絶えず問い続ける必要がある。政治理論が今直面している課題は、国家からの「解放」ではなく、われわれの想像力を縛る一切の境界の開放である」(p52

「筆者も境界線の消失を素朴に夢見ているわけではない。しかし、現状では「境界線の政治」は弱まるどころか強まる傾向を見せているので、対抗的な方向性を示すことが実践的に必要であると思っている。」p83

「線を引いて、ある人々を囲い込み、その人々を対象とする。線の内部を最適化するために、さまざまなノイズやリスクは外に放り出す」p173

「 性急に行動を説く人々とは異なり、われわれはできるだけ論じ続けたい。しかし、それでもなお、いつかは何かをすることになる。参加する人々の範囲にも、自ずと限界はある。何をしようとも、何らかの課題が残され、新たな問題が生じるだろう。われわれに最低限求められるのは、自らの引く境界線が排除している何かを、見つめ続けることではないだろうか。」(p178)
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