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久しぶりに聖書を読んでみた 

 不思議なもので、結局のところ節目・節目には聖書に自分は立ち返る気がする。

 そして、久々に手にしてみると、いままで読み飽きたと思っていたようなフレーズが、まったく違った輝きを帯びて自分に迫ってくる。

 人は自分の理解できることしか理解できない。

 当たり前のようで、忘れてしまうこの事実。

 どうも、自分は書簡集や黙示録はイマイチついていけないのだけど、福音書のイエスのことばには、やはり真理があると思う。

 彼はそんなたいそうなことは言っていない。

 ただ、しあわせに楽しく生きるためにはどうしたらいいかを、きわめて単純明快に語っているだけ。

 人を愛し、自分の最善の部分を捧げ続けなさい。

 これは、別に「そうしなければならない」とかそういうものではなくて、単に、そうしたほうが人間しあわせだよってこと。

 だから、思う。

 クリスチャンとは、地に平和をもたらし、向き合う人の心に喜びの火をともす者だと。

 イエスの教え、山上の垂訓の実現不可能性とかなんとか、難しいことを言って不毛な悩みを真面目な人たちに伝染させている神学者がいた気がするけど、そういう複雑な次元の話じゃない気がする。

 「いいかい、人を愛するんだよ」

 「いや、わかってるんですけど、それが難しいんですよね。」

 難しいだとか、そう思う時点で何かピントがずれている気がする。

 真摯に自分のしあわせを追求していけば、きっと他人に自分の最善の部分を捧げることにたどり着くはず。

 そして、そうした喜びの先に神さまはいる。そんな気がする。

 変な言い方だけど、他人のために愛するんじゃない。自分のために愛する。愛するようにわれわれは本来つくられていて、それが自然のあり方だから。そして、そう自然な形であることがしあわせだから。

 イエスが最初に行った奇跡は、婚礼の席で水をお酒に変えたこと。

 神さまは、笑顔がお好き。しあわせな人がお好き。

 だから、持っている者は、さらに与えられ、持たない者は、持っているものまでも取り上げられる。
 
 しがみつけば、しがみつくほど、あらゆるものが砂のように指の間をすり抜けていく。

 そうではなくて、自分の中の最良のものを、与え続ける。

 しかも「最良のもの」って、なくならない。むしろ、与えれば与えるほど増えていく。

 「最良のもの」は人の心に火を灯す。笑顔をもたらし、優しさをキャンドルサービスのように広げていく。それは、闇夜に燦然と輝く、永遠の火。

 灯りさえあれば、夜は優しく、暖かい。

 そして、きっと、それが「愛」なんじゃないかなって思う。

 「愛しなさい」ってのは命令なんかじゃない。そうじゃなくて、そうすればしあわせになれるよと、神さまが人のことばで教えてくれているだけ。

 もし救いがあるとするならば、それは何かを得たり、失ったりするということとは別の次元のことだと思う。たぶん、何かをもらっても、人間ってしあわせにはなれない。

 受け取るのではなく、しがみつくのではなく、むさぼるのではなく、ただ、いまあなたの傍に居てくれる人たちが喜んでくれるように、あなたにの最良の部分を与え続けなさい。

 そんな神さまのことばが、聖書を通じて伝わってきて、なんだか涙が出るほど嬉しかった。

 ルカ書って本当に素敵。
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コメント

そうですねー
愛の福音ですねー
同感です

寝太郎さんもルカ書がお好きなのですね
私も4つの福音書の中でルカが一番好きです。

>じゅんさん

 おひさしぶりです。

 じゅんさんのような方に同意していただけると、とても嬉しいです。

>はんなさん

 おー、はんなさんもですか。

 いいですよね。

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