スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

0・5%の真実 

 あまり深刻に受け止めてはいないのだけど、眼が覚めてから布団の中でうとうとしているとき、「あぁ、死にたいな」と思うときがある。

 不思議なもので、特に何の脈絡もなくフッと浮かんでくる。別に心身病んでいるとか、そういうわけではなくて、昔からそう。どんなに調子のよいときでも、ふとそういう思いがうとうとしているときに浮かんでくる。

 今朝もそれがあった。きわめて心身充実しているだけに、かえってその思いがどこから来るのか、興味本位で冷静に考えることができた気がする。

 うまくはいえないのだけど、たぶん、きわめて本質的なところで、自分は飽きているのだと思う。

 毎日に刺激がないとか、そういう問題ではないのだ。どんなにスリルと刺激に満ちた毎日をおくっていても、心のどこかで強烈に飽きている…そんな気がする。

 かと言ってニヒリズム、虚無主義というわけでもない。生きるということには大いに意味があるし、別に宇宙の運命に対して絶望しているわけでもない。すべてはいのちみなぎりうつくしく、よろこびあふれて日々うたう…そんな宇宙の声が朗々と心に響いてくるくらい力に満ちているときも、どこかで徹底的に飽きている。

 あらゆることは意味に満ちて、生きて時を重ねるということが面白くて仕方が無い…それでも、人は飽きることができる。

 この1%、いや0・5%常に飽きている部分、なんとなく、これが自分にとっての鍵なんだという気がする。

 変に気にすると、必ず心を病む。説明のつかない漠然とした不安がシトシトと湧き出てきて、灰色のもやのように心を覆う。

 でも、逆に言うと、この「飽きている部分」は自分がまだ意識できていない「恐れ」の対象に極めて近いところにあるということだと思う。

 住職様は坐禅とは「いまという流れの中に自分という船を浮かべること」ということを仰せだった。いまの自分をみると、この0・5%が常に、「いまという流れ」に乗れていない気がする。

 そして、この0・5%は、たったの0・5%だが、人間として最も根源的で、大事な、欠くことのできない0・5%な気がする。

 だから、自分が「将来なにがしたいの?」と聞かれた際に、「ぶっちゃけどうでもいい」と答えるのは、限りなく本心に近い。多少の好みはあるにせよ、実存的なレベルにおいては本当に「どうでもいい」のだ。

 本心としては「どうでもよくない」のに、深いところでは限りなく「どうでもいい」と思っているこの自己矛盾。

 そして、この文章を書いていて、ふと、「あぁ、だから自分は何事にも淡白で物分りがいいんだな」と思った。欲というか、執着が無さ過ぎるのだ、不自然なくらい。

 心のどこかで飽きている限り、あらゆる物事は自分にとって根源的なところで「どうでもいい」。どんなに夢中で何かに打ち込んでいても、心の一番深いどこかで「どうでもいい」と思っている。何をやっても、傍観者のように自分について客観的に語れるということは、病的だ。

 だから、思えば、いままでの自分の人生は、この0・5%を「いまという流れ」に乗せようとして、あらゆることに夢中になろうと「意識的に」努力することに主眼があった気がする。

 でも、いま思えば0・5%を乗せようとするのでは駄目なのだと思う。そうではなくて、0・5%が乗ることによって、心身がともに「いま」を生きることができる。だから、意外と坐禅をしようと思ったのも、案外その0・5%の悲鳴に無意識に応えたのかもしれない。

 自分という人間の中の、ある種、根源的な乖離。

 祈りというものは、自分の真実が語らなければ決してかなえられるものではないし、第一、そもそも実行可能なものですらない。もしかしたら、自分は生まれてから一度も真実の祈りを捧げたことが無いのかもしれないとすら思う。

 とりあえず、今日は自分の心が向き合わなくてはいけない対象がなんとなくわかっただけでもよしとするか。

 ふぁ~、早起きしすぎて眠い。二度寝の予感…。
スポンサーサイト

コメント

key of life

座禅を楽しく読ませてもらっています。
「0・5%の真実」に自分の言葉で気の利いたことが言えれば一番ですが、最近読んだ文章を思い起こしたので紹介させて下さい。

>仏教でいう諸行無常、一切は生滅変化するということ。それは、人が生きるということのもっとも深くに組み込まれた苦だ。その苦を、深いレベルで味わうことによってスピリチュアルな次元に開かれていく。
http://blog.goo.ne.jp/n-ishii

>精神の最も暗い奥底すらもが暴きだされている時のその全き空虚は、何かで一杯であることの激烈さではないような激しさを持ち、それは占有がもたらす抵抗によって減らされることはない。
そこには何一つ抵抗したり克服したりすべきものはない故に、この激しさは努力によらない沈黙である。
何かに占有された精神は、この沈黙を知らない。
クリシュナムルティ 『努力によらない沈黙』
http://blogofjannita.jugem.jp/?cid=23

なるほどぉ

>シコオさん

 これはまた、なんだか面白そうなサイトを幾つか紹介していただいてありがとうございます。

 いやはや、こんな記事を書いてはみたものの、そのいわゆる0・5%がなんなのか、さっぱりわからないのですよ。

 まぁ、これこそ自分の生涯の課題なのかなぁって思うわけです。

 これからも、ぽつぽつと書くことによって自分と向き合っていくつもりですが、そんな個人的な記事にもお付き合いいただける方がいらっしゃるのは本当に嬉しいことです。

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://slumber365.blog2.fc2.com/tb.php/227-4b7de3e2

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。