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坐禅レポォト その2 

 先日、参禅したとき、住職様に呼吸を注意された。高校時代に声楽を嗜んだせいか、意識すると長くて深~い呼吸になる。

 それでは駄目なのだと言う。

 そのことを注意されて、気づかず意識的に呼吸を力づくでコントロールしようとしている自分を見つけた。呼吸と言う根源的な営みにこそ、その人の人間性が現れるのだなぁ。

 自分は呼吸ですら「不自然」なんだ。だから、苦しいんだなぁと思った。「不自然」なことを考え、右往左往するから苦しいんだ。
 昨夜座っていて思ったのだが、生きるということは大縄跳びを飛ぶようなものだと思う。

 縄をまわすのは自分ではない。だから、まわし手のリズムに合わせて、跳ばなければいけない。

 けれど、本当にまわし手のリズムに同調してしまえば、事態は変わる。自分はただ自分のリズムで跳ぶ。大縄と跳躍する自分はふたつでひとつ。そこには、まわしている者と跳んでいる者の境界がないのだ。

 縄のリズムは自分では決められない。また、どの縄に飛び込むかも自分では決められない。

 でも、そこには絶対的な自由がある。それはふたつにひとつ、跳ぶか跳ばないかの決断の自由に他ならない。

 坐禅をしながら、意識を呼吸に溶かしこんでいくというのも、同じことなのかもしれない。

 あくまで自然ないつも通りの呼吸に自分の意識を合わせていくと、いつの間にか無意識の呼吸か意識的な呼吸かがわからなくなる。

 そのとき、自分は大縄を跳んでいるのだ。そんなことを、最近思う。とにかく、動いて、飛び込んで、感じること。それが一番大事。

 そんなことを考えながら、坐禅をしていたら携帯にメールが届いた。
 
 とろうとして立ち上がった。

 足が痺れていた。

 ものすごい勢いでこけた。

 ずどんという音がして、部屋が揺れた。

 思わず大笑い。

 それこそ、爆発的な哄笑。胃腸と肺がでんぐりがえり、吼えるように笑う。

 これだよ、これ。

 難しいことは何一つ無い。ただ、床に無様に転がっている自分。これが「自分」そのもの。

 座っていると足が痺れる。尻餅をつくと尻が痛い。これが真理。

 まだ始めたばかりで、禅の「ぜ」の字も理解していないけれど、何かと発見の多い今日この頃である。


坐禅レポォト その1
坐禅レポォト その3
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