スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

座禅レポォト その1 

 「そう…、何かいろいろ腑に落ちないんです。」

 「今日はどういったきっかけで座禅をやってみようと思われたのですか」という住職様の問いかけに、とっさに出てきた答えがこれ。

 言ってみて、あぁ、本当にそうかもしれないと自分で納得した。
 一昨日、ひょんなきっかけで駒込にある霊樹院というお寺で座禅を指導していただいた。

 しょっぱなから三十分の大遅刻をやらかし、ビクビクしながらお伺いしたのだが、住職様はとても優しい方で、まさに地獄に仏という感じだった。

 最初は緊張してコチコチになってしまっていたのだが、お茶を出していただき世間話。クリスチャンのにおいでもしたのだろうか、いきなりこんなことを言われた。

 
 「禅というのは、外の神に向かっていくのではなくあくまで自分の内へと向かっていく宗教です。だから世界で唯一イスラエルで堂々と布教ができるんですね。」

 「へぇ、イスラエルでですか?」

 「はい、禅センターというのがあるんです」(笑)

 そんなこんなで、しばらく雑談が続く。

 冒頭の会話はそんな中で起きたもの。

  「今日はどういったきっかけで座禅をやってみようと思われたのですか」

 「そう…、何かいろいろ腑に落ちないんです。」

 そうなのだ、何とはうまくいえないのだが、漠然とボタンを掛け間違えているような違和感をなんとなく感じることが多い。

 何か、振り回されている。

 自分が自分でない感覚。

 そう、だから腑に落ちないのだ。
そんなことに気づいた。

 そのことを率直に申し上げた。

 そうしたら、「なるほど…」としばらく考えてから、こんなことを住職様はおっしゃった。

 「われわれの身体のほとんどは、首から下の部分ですよね。ことばとか思想とか、そういったものは結局心の底には届かないんです。だから、座るときは頭の中に浮かんでくるいろいろなものを呼吸の中に溶かし込むような感じでやってみてください。」
 
 そして、しばらく座禅の基本的な座り方と作法の説明をしていただき、さっそく15分座ってみることに。

 カチカチと火の用心で鳴らすやつの高級版みたいなのを打たれた後、不思議な音色の鐘を住職様が鳴らす。無限に広がっていく倍音が鼓膜に吸い込まれていく。

 座禅が始まった。

 臍下丹田(へその下から3cmくらいのところ)に意識を沈め、息を数える。

 二人の自分が鮮明に立ち現れた

 とりとめもない考えをぽこぽこと浮かべてくる「考える」自分。集中しなきゃということを思ったり、うまく座禅できているのかと疑問に思ったり、あるいは「あ、いまうまくいった」と有頂天になる。そんなとりとめもない雑念たち。

 一方で、いまここで「息」をしている自分がいる。全身全霊で生きようと、身体中のあらゆる細胞を激しく収縮させている爆発的な命のエネルギーがある。深く吐き、深く吸う。ここにいのちがある。

 「いのち」から「考え」が絶えず浮き上がって、さ迷おうとする。本来一人である自分が、二つに分かれて自分でなくなろうとしていることに気がついた。

 自分がひとつにまとまって行くような気がした。

 十五分は一瞬ですぎた。音や匂いがすごく鮮やかに感じるようになり、頭と気持ちのもやもやしたいろんなものがスーッと自分の体の中心に沈んで行った。

 座禅すげぇ。(笑)

 そのあと、しばし質疑応答を交わした後、もう15分ほど座禅。

 二回目は一回目よりさらに短かった。住職様が鐘を鳴らしたとき、「え、もう?」とびっくり。

 すべてが終わり、住職様にお茶とお菓子をふるまってくださり再び雑談。

 そんななかで、どういう文脈でこういう話になったか忘れたのだが、とても印象に残ったやり取りがあった。

 「われわれの心のそこには人形遣いがいるんですね。凶悪犯罪やそういったことをする人は、その人形遣いが鬼の人形を操っているからそういうことをしてしまう。反対に、よい人、ボランティアをやったりだとかそういった人は人形遣いが仏様の人形を操っている。人形遣いは見えない。けれど、人形遣いになることはできるんです。」
 
 「…できるでしょうか?」

 「はい、できます。」

 なんだか、すごく勇気付けられた。

 思いつきでチャレンジしてみたのだが、本当に素晴らしい経験をしたと思う。これからも、しばしば参禅させていただこうと思う。住職様、ありがとうございます。

 最後にちょっと宣伝。(笑)

 お寺の名前は霊樹院。山手線の駒込駅から徒歩10分弱。
 
 個人指導は初回のみ1000円で、次回以降はお気遣いなくとのこと。なんでも、ただでお寺に来て座っていく人よりも、カルチャーセンターで何万円も払って学ぶ人の方が、真剣に座る人が多いという事実にいろいろ思うところがあったとのこと。僕が見ていただいたのは、正味3時間弱。

 予約は電話もしくはe-mailで。(HPこちら

 住職の政栄宗禅さまはとても真摯で優しいお人柄。誠実に相談事にのってくださいます。

 以下、住職様が言われたことで、印象に残ったことばを書いておきます。ちなみに、下記のものに限らずこの記事で紹介した住職様の発言は、すべてうろ覚えのものを書き留めたものなので、必ずしも正確ではないということはお断りさせていただきます。


 「現在」というものは流れている。自分と言う船を「現在」という河に浮かべるのが座禅

 えり好みをするから「いま」現実の自分自身から離れ、苦しむことになってしまうんですね。良寛さんが苦しみから逃れるにはどうしたらいいのかということを聞かれて、「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候。死ぬる時節には死ぬがよく候。これはこれ災難をのがるる妙法にて候」とおっしゃってますが、本当にそのとおりだと思いますね。

 われわれの身体のほとんどは、首から下の部分ですよね。ことばとか思想とか、そういったものは結局心の底には届かないんです。だから、座るときは頭の中に浮かんでくるいろいろなものを呼吸の中に溶かし込むような感じでやってみてください。

 われわれが何かに純粋に集中していることを仏教のことばでは三昧といいます。そして、皆様結構誤解されておられるんですが、こういう静かな環境で座禅をするというのは、もっとも三昧に入りにくい環境なんですね。だから、座禅というのは訓練なんです。

 われわれの心のそこには人形遣いがいるんですね。凶悪犯罪やそういったことをする人は、その人形遣いが鬼の人形を操っているからそういうことをしてしまう。反対に、よい人、素晴らしい人は人形遣いが仏様の人形を操っている。人形遣いは見えない。けれど、人形遣いになることはできるんです


坐禅レポォト その2
坐禅レポォト その3
スポンサーサイト

コメント

寝太郎さん、こんにちは。
またいっぱい新たに教えていただきました。

「禅というのは、外の神に向かっていくのではなくあくまで自分の内へと向かっていく宗教です。」

外の世界も宇宙だけど、自分の内の世界も同じく宇宙。なかなか毎日忙しいからって、後者を旅するのは後回しにしがちですが、やっぱり根っこというか、非常に大切なことなんでしょうね。改めて感じました。

「様結構誤解されておられるんですが、こういう静かな環境で座禅をするというのは、もっとも三昧に入りにくい環境なんですね。」

・・・誤解していました。そうかぁ、自ら修行の中に身を投じるんですね。なるほど~。

やっぱりきっと、人って、出会うべき時に出会うべき人に出会うんですね。
本当に素晴らしい経験をされたんですね。私も日本に帰ったら、座禅しに行きたいです!
(^▽^)

寝太郎さんの感激はわかりますが、座禅をしたことのある私としては、やっぱりちょっと違うという気がします。
座禅をして内的に答えが出せたとしてももっと大きな問題の答えは出なかったからです。
それに、誰でも座禅ができる時間があるとは限らないし。
ただ、こういうふうに静かに内面を見つめることは必要だとは思います。
実はキリスト教でも内面を静かに見つめる作業があるのですね。
日本ではほとんど知られていませんが、アメリカではけっこうやっている人がいます。

>sayakaさん

>やっぱりきっと、人って、出会うべき時に出会うべき人に出会うんですね

 本当、そのとおりだと思う。ありがたいことです。

 坐禅というのは、実は一番集中しづらい環境なんだというのは、僕も誤解してました。(笑)

>はんなさん

 たぶんね、坐禅で得られるものって「答え」じゃないと思うんですよ。

 むしろ、問題に直接ぶつかっていく前提となるための、自分の立ち居地の確認みたいなものじゃないかなって気がしています。

 答えを見つける前に、まず問題に立ち向かっていく姿勢と意欲を自分で確認しなきゃいけない。

 座ると言うこと、自分のありのままの「いま」とガチンコに対峙するための心身の統一じゃないかって気がしてます。

 う~ん、うまくいえませんが。

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://slumber365.blog2.fc2.com/tb.php/215-add812e4

-

管理人の承認後に表示されます
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。