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「自己分析」だって、あ~気持ち悪い! 

 「自己分析」…若者の就職活動、三種の神器のひとつ。
 
 こういうのっぺりとした気持ち悪い流行に直面すると、死んでしまいたいほど憂鬱な気分になる。実際、いまこの世から消えてしまいたいほど陰鬱だ。

 なぜ働くのか?なぜ勉強するのか?なぜ飯を食うのか?なぜ風呂に入るのか?なぜ生きているのか?…あー、ばかばかしい。理由がいりますか、そういうのに?あぁ、例の「自己実現」のためですか?

 で、自分の長所を分析と…。悪いけど、自分の長所について恥じらいもなく滔々と述べられるようなヤツにはろくなのがいない。そういった無反省な破廉恥さは一般的にあたかも欧米文化の所産だと思われがちだが、そんなことはない。生きていることへの畏れと、知への愛がなくなるところには、こういうものは普遍的に現れる。そういう意味で、グローバル・スタンダードと言えなくもない。

 気持ち悪すぎるよ、この薄っぺらい人間観。「分析」とやらで見えてくるものっていったい何?ようやく迷信と神話を追っ払ったと思ったら、いつの間にか軽薄な心理学が玉座にいた。人類の精神史の悲劇というべきか。

 上澄みはいつも澄んでいる。でも、それは上澄み。古池に石を投げ込みんだ後に続く、あの荘厳な静けさ。あの恐ろしさを知らないものが、自己を分析しろなどというたわごとを気軽に吐ける

 以下、親友(以下与作)とのチャットのログ。

(自己分析ってしたほうがいいらしいという話題の延長で)

寝太郎の発言:

やめた!! あほらしい

与作の発言:

おいおい。。。

寝太郎 の発言:

ばかばかしいからお前もやめろ

自己分析?

ばかばかしい

与作の発言:

会社受かるためにって思うとほんと馬鹿らしいよな

でも、自分の人生振り返って日記でもつけるつもりでやってみるさ。

思い出を書き出して、昔に浸ってるのも悪くはないな

寝太郎の発言:

死にたい

与作の発言:

なんでさ?

寝太郎の発言:

お前にはわからん

そういうもんだろ?

なぜあなたはこういうものを見ると「死にたい」と思うか
分析してくださいと言われてできますか?

あー気持ち悪い

与作の発言:

そりゃそうだ。

与作の発言:

まぁ官庁や痴呆公務員という手もある

寝太郎の発言:

痴呆公務員か

いいな、それ。(笑)

与作の発言:

おっと、地方


 深みから湧き上がってくるものに向き合うときの、あの恐ろしさを知るものは、「自己分析」しろなどと気楽なことは言えないはずだ。

 この世界に「自分」ほど恐ろしいものを、自分は知らない。100%思い通りに動かせるようで、まったく自由にならないのが「自分」というものの恐ろしさではないのだろうか。この「自分」が誰なのか…それは本人の棺桶が釘打たれて、はじめてわかることだ。不幸にして、自分は破滅しようとして破滅した人間を一人も知らない

 では、プロのキャリアカウンセラーさんの「自己分析」を拝見


  * 私の得意なこと…「やり遂げる力」「新しいことに挑戦する力」。
* やりたいこと…「キャリアカウンセリングの知識やスキルを身に付けること」。
* どんなことに意味を感じるか…「私の言葉や文章で、一人でも多くの大学生が夢の仕事に就ける事」。


 あー、気持ち悪い。それはいったい誰の「ことば」ですか?どこからコピペしてきたんです?ってか、あなたいったい「誰」なんです?彼の自己分析の結果は、彼についてなにひとつ語らない。

 こみ上げてくる嘔吐。こういうものが幅を利かせる世の中のために、いままでの人類の歴史があったのだろうか。神と歩むことをやめた途端、人は自分を解剖し始めた。でも、人間ってのはばらばらに解剖すると、ただの細切れになるんだよ。臓器と排泄物の山になるんだよ。ようは死ぬんだよ。

 こういう薄っぺらい人間観が「あたりまえ」になっていくのを眼にするにつけ、この世界で生きることをあきらめたくなる。

 でも、逆に思う。闇が最も深まったときこそ、夜明けの足音が聞こえ始める。いまは「本物」の種が蒔かれている時期なのだろう。こういうものに違和感を感じる人びとがきっと他にもいるはずだ。

 この混乱した世界において、道を踏み敷くものでありたい。絶えず喜びと希望が出会うすべての人びとの心に向けて、自分の中からほとばしりだすようなものでありたい。

 ゆえに、希望を棄てずに待つ。世界においてなんたか自分と、後から来る「本物」の人たちのための場所を確保して。

 だから、まだ生きることをあきらめない。後からきっとくる、よりよい時代に生きるため。自分が光り輝くものとなれなければ、せめて後から来る人々のために道を整えるものでありたい。

 そういうことを、よく思う。
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コメント

遊戯の世

三種の神器のひとつなんですか?
不思議なゲームというか、集団で冗談やってるみたいな話ですね。
ソサエティーではなく(日本にソサエティーがあるとは思えないので)カンパニーへの入会ルールなのでしょう。
寝太郎さんの死にたくなる気持ち、何となく分かります。

あぁ、わかってくれますか!!

>佐伯シリルさん

 あぁ、わかってくれますか…(号泣)

 なんか、あまりにも一般じょーしきとして通用している「入会ルール」なので、なんだか自分の感じ方がおかしいんじゃないかと思って異邦人もいいところです。

 とにかく、すごいんですよ、昨今のしゅーかつカルチャー。リクナビとか日経ナビとか開くたびに、まじめな話ベランダから飛び降りたくなります。自分には合いません…がんばって適応しますけどね。

 三種の神器ってのは冗談です。(笑)でも、なんかでっちあげられそう。ちょっと考えてみますね。

日本お笑い世相・大学生編

三種の神器ですか。自己何とかとやらがそのひとつだとしたら、後の2つは何ですかね。三種の神器という表現からも団塊の世代が考案したんですかね。まぁ、良くも悪くも団塊の世代は数年後には実務の現場からほとんど消え去りますから、そのような儀式は消え去るでしょう。そして現政権がやっているように、政策の如何はともかく、徹底した合理主義に基づく採用が行われるようになるでしょうね。特定の資格を持ってないとダメ、とか米国の一部のトップ企業がやっているように、ある特定の大学の学生以外はとりませんよと明示したり・・・・ そう考えると今やってるようなお笑いじみた採用方法のほうが日本的といえるかもしれません。ああ、こんなものもあるんだな、くらいに思っておいたほうがいいかもしれません。真剣に考えすぎてちょっと精神的にいっちゃった女性の方を知ってますので。

薄っぺらな表層

寝太郎さん、こんにちは。

| こういう薄っぺらい人間観が「あたりまえ」になっていくのを
| 眼にするにつけ、この世界で生きることをあきらめたくなる。

「コンピテンシー評価」という人事評価が今の企業での主流になりつつ
あります。つまり全人格的な評価ではなくて、その人の「会社にとって
役立つ部分だけ」を「これまでよい成績をあげている人間の行動基準に
基づいて評価する」という思想ですね。

会社社会では「金儲けに直結する能力」が求められています。
それを合理的に選別しようとすると、コンピテンシー評価になり、就職
活動においてのPRなり選別では「自己分析」になる。
全て薄っぺらな浅い表層のことですが、表層で結構だし、むしろ表層以外
は何も考えて欲しくない、金儲けに集中しろ!というのが会社の側の本音
だと思います。

こういう薄っぺらな人間観、企業に入ってもずっとおつきあいせざる
を得ない世界だと思います。僕も半期ごとに会社の自己能力評価シート
(コンピテンシー評価シート)を書かないといけないのですが、ほとほと
嫌になります。

米国式「合理主義」という非合理主義

>yusukeさん

 真剣に考えすぎておかしくなってしまった知人がいらっしゃるとのこと、そうなってしまう気持ちは身に染みて理解できます。

 あまり考えすぎないほうがいいのでしょうね。ご忠告、かたじけなくいただきました。

 米国流の徹底した合理主義とやらは、遅かれそのうちに間違いなく破綻します。その理由は、それが合理的ではないからです。

 なぜ、合理的でないか。それは、彼らが誤った前提からすべての価値基準を導き出しているからだと思います。つまり、彼らの理屈においては、人間の有用性(もしくは効用性)は合理的に把握し得るものであるという馬鹿げた迷信に基づく人間観が無批判の前提にあります。

 論理というものは、正しい前提から出発した場合には必ず正しい結論に達します。一方で、誤った前提から出発した場合は必ず誤った結論に達します。

 そして、合理的であるということは、正しい前提から正しい結論を正しい論理過程を通じて導き出すことであります。したがって、米国式「合理主義」というものは、それが誤った人間観から発している限り、非合理的であり、ゆえにきっと行き詰まり破綻すると僕は思います。

こんぴてんしぃ

>awayさん

 なるほどぉ、「コンピテンシー評価」というのですね、ありがとうございました。

 まぁ、考えてみたらこういう発想は、例えば義務教育が本邦で採用された際に多くの人びとが、「学問なんざぁやらせるとろくでもねぇ穀潰しができる」という理由で、子弟を学校に行かせるのを渋った事例からも見れるように、割合普遍的に存在するのかもしれません。

 そして、ある意味ではこういった発想は健全なのです。まずは実践性から始めなくてはならない。ぐーたらのろくでなしほど口は達者というのは、実生活でよく眼にする光景であります。(かく言う自分もその一人)

 しかし、一方で人の身体は90%以上が水でできています。したがって、水気がないと乾きます。乾くと、死に至ります。

 フリードリヒ・ナウマンのことばで「ユートピアというものはどこにもない国のことだが、それは現実が干からびないためにある」というようなものがあります。(うろ覚え)9割が水でできている人間という生き物は、残念ながら干からびた効率的な現実の中では生きていけないものらしいのです。

 まことに、計算、統計、計画ならびに二進数では処理できないところが、人間およびその共同体、社会、および政治において起こる諸々の事柄の難しさなのですが、どうやらそういった基本的な事実が白痴的「こんぴてんしぃ」教徒の方々にはおわかりでないようですね。

 現実に即していない理屈ほど、一見きれいで、論理的に一貫しているものです。そして、人間と言うものは論理的に一貫した法則に常に寄り掛り、絶対安全かつ確実な計画されつくした人生をおくりたいという衝動を持つ動物であります。ゆえに、いつの時代でも「あたかも世界を説明し尽くしているかのように見える」迷信というものが、常に社会の根本原理に据えられていたわけで、これだけ科学が進歩してもそれは変わらないようですね。人類にとって大変、不幸なことです。

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