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消極的な自殺という生き方 

 自殺をしようとする人間の心性には、汚らしいユダヤ人や、脂ぎった資本家が目障りだから絶滅収容所のガス屋で始末しようとする人びとのそれと相通ずるものがある。

 両者の違い単純だ。要は、世界を変える力が手中にあるかないか。それだけのこと。根本にある心性そのものはきわめて近い。与えられたありのままの世界が憎いのだ。彼らには世界が自分を拒絶しているように見える。だから、両者ともありのままの世界を拒絶する。力のあるものは気に入らないものを排除することによってそれをつくり変えようとし、力のない者はそこから決別する。

 そう、それはどちらも、反逆という点では同じことを意味する。それは神への反逆ということもできるかもしれないし、それ以上に、自分を生み、育んできた世界の理(ことわり)へのそれだともいえる。そして、なにより、それは、自分を成り立たせているありとあらゆる命の絆に対する拒絶であり、それらの想いを踏みにじる行為に他ならない。

 一方で、自殺という行為も二種類に区別する事ができると思う。つまり、積極的なものとそうでないもの(消極的なもの)の二者に。

 自分自身に暴力を行使することによって、世界に決別するというのは、ある種の蛮勇が必要とされる行為である。命を絶つために要求される痛みや恐怖…そういったものを乗り越えるだけのエネルギーは、似て非なるものながら、一見勇気に近い。そういった意味で、こういった積極的な自殺を行うにも、ある種の力が必要とされる。それは、自分自身を壊す力と決意。ある種の猛気といった力が積極的な自殺には必要とされる。世界、およびあらゆる命と決別することはそう簡単なことではないのだ。
 
 いままで述べてきたことを要約するとこういうことになる。つまり、自分が気に入らない世界をつくり変えるにせよ、自ら命を断つにせよ、どちらにしろある種の「力」が要求されていると。

 では、ありのままの世界を憎みつつ、そういった力を持たないものたちはどうなるのか。世界に拒絶されながら、つくり変えることも、決別することもできない者たちはどうなるのだろうか。

 ここに、消極的な自殺という生き方があるのだと思う。

 自殺という行為が難しいのは、自らの意思が生きることを放棄しただけではそうそう死ねないことだろう。自分の意思と、自分を生かす「命」は別物だ。自殺をしたい者にはまことに残念な事実だが、人は生きているのではく生かさされているのだ。「自分」ですら「自分」のものではないという冷厳かつ滑稽なこの事実!!だから、自殺をするためには「自分」を「殺す」ことが必要となる。そして、だからこそ、それは世界への決別であり、命への反逆でもあるのだ。

 だから、生きる意志を放棄しつつも「自分」を「殺す」ことのできない人間は、消極的な自殺という生き方を必然的にすることになる。それは、世界との積極的な関わり拒絶しつつ、与えられた自分の「命」が尽きるのを漠然と待ち続けるような生き方だ。自分自身として世界において生きることを諦め、広い意味で世界から「引きこもる」のだ。

 なぜこんなことを書いているのかというと、先ほどまで自分がある種の空虚さに負けそうだったから。二日ほど、消極的な自殺者として生きていたから。

 夏ごろから仕事を探し始めた。ところが、これがまた面白いほどに片っ端から猫も杓子も不採用に終わる。最初のうちは名馬は多かれど、伯楽少なしと鼻で笑っていたのだけど、これだけ続くとなんともいえない不安と屈辱にさいなまされる。中途半端に甘ったれた矜持が高いものだから、必定、自分自身に問題があるという現実をなかなか受け止められない。だから、やり方を変えて再チャレンジしようというプラスのモチベーションよりも、自分を拒絶する(と自分が勝手に思っている)世界への絶望と倦怠…そして何より自分の人生に対する諦めへとどうしても心が向かっていてしまう。

 まぁ、一言で言ってしまうと、ある種の甘ったれた適応障害に陥っているのだ。そして、自分に示されている選択肢は二つ。適応するか、それともしないか、そのどちらか。適応するためには、変わらなければいけない。でも、変わるのは痛いし怖い。そんなアンビバレンスが心を内へ内へと引きずり込む。生きることを諦めたくなる。その難しさ。

 だから、漫然と何もせずに日々を過ごす。自分を拒絶する世界、自分の都合のいいように変わろうとしない世界を憎み、拒絶し、ただ自分の殻のなかに引きこもる。空からパンが降ってくるか、トラックが寝ている間に部屋に突っ込んできて、苦しまず世界からいなくなれるのを待って。これが消極的自殺という生き方

 でも、思う、生きるということは自分が変わることによって世界を変えていくことだと。自分を変えないで世界の方が変わるということは、自分に言わせればあり得ない。また、それぞれの人が、自分自身の居場所を世界の中につくらずに世界が変わることもあり得ない

 ハンナ・アーレントは、『人間の条件』において一人の人間が生を受けるということは、新たな「始まり」が世界に挿入されるということだと述べた。人間が命を授かり、この世界に生を受けるということは、何か新しい始まりが世界へと迎え入れられたということに他ならない。つまり、われわれはこの世に生を受けた時点で、この命の贈り主から自分自身として生きられる場所を世界の中に新たに創りだすことを期待されている

 われわれひとりひとりが世界へ挿入された新たな「始まり」だと考えると、世界がありのままのわれわれを拒絶するのも当然のことかもしれない。新しいということは、それは古いものとは異なっているということだ。つまり、われわれは自分自身であろうとすると、必然的に世界において異質なもの、異邦人たらざるを得ない。全体主義者や革命家は旧いものを叩き潰そうとし、積極的な自殺者たちはせせら笑って自ら世界に別れを告げる。一方で、消極的な自殺者とはその事実の前に立ちすくんでしまい、どうにも身動きがとれなくなってしまう人びとなのではないだろうか。

 これは、昨今問題になっているニートや、就職できない若者たちだけの問題ではない。むしろ、潜在的にそういう生き方をしている人は社会人にも多いのではないだろうか。自分自身として世界と共に生きることを諦め、完全に社会のメカニズムの中の一歯車になってしまう類の適応過剰も、やはり広い意味での消極的自殺というべきだろう。

 忘れてはならないのは、確かにわれわれは新たな「始まり」として誕生するが、それはわれわれ以前から世界に居た人々と「共に生きる」ために送り込まれるのだということだ。つまり、われわれは新しいものとして古い人々と世界を分け合うことを期待されている。だから、われわれは世界の中で生きなくてはならない。そのために、われわれはわれわれ自身でありつつ、他の人びとと世界を分け合えるように変わっていかなくてはならない。社会に適応するということは、本来そういうことではないだろうかと思う。

 昨日一日、陰鬱な気分で閉じこもりながらそういうことを考えていた。気をとりなおしてもう一度がんばってみようと思う。自分が自分自身でいられる場所をつくるということは、世界に受け入れられるような自分へと変わっていくこと。そして、消極的な自殺をとげるよりも、世界の中で人びとと共に生きるということに自分の幸せはあることは確かであり、また、自分は幸せになりたい。だから、魂に語りかける「生きよ」という呼び声に応えてみようと思う。絶対に諦めない。自分のために、そして自分を必要としている世界のために。

 …と、今日も長文のエントリーになってしまいました。とりあえず、すっげぇ簡単な要約。

いま~、わたしの~
ねが~いごとがぁ~
かなうな~らば~
しごぉ~と~が~
ほし~い♪


 以上。(笑)
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コメント

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 修正しました!!

 ありがとうございます。

内なる自分への働きかけ

周囲を変化させようと働きかける力は、莫大なものになると思うのです。
それよりは、その力の10分の1の力を自分を変えるために使った方が、効率が良いし、最終的には周囲を変化させる力になるハズです。
そして、それこそが「生きる」ということだと思います。
「生きる」ことによって、周囲に影響を与えることが出来る人生って素晴らしいと思いませんか?
漫然と「生きてる」だけの人生よりも。
そんな人生を送れるように、頑張りたいですね。

>hapicubi_otto

 本当、仰るとおりですね。

 とりあえず、生きるのをあきらめないでいたい。あきらめない限り、きっといつかは変わっていけるものだと思いますから。

 その方が楽しいですしね♪

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