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遺書にかえて 

 なぜか、突然遺書というものを書いてみたくなった。とりあえず、死ぬ予定はない。が、人間、いま、この瞬間に隕石が直撃する確率すらある。何があるかはわからない。それに、突然、フッといなくなりたいという願望を感じ、本当にいなくなってしまうかもしれない。自分にも、正直言ってわからないのだ。何があるか。自分が何をしかねないか。そんなことを考えていたら、いま、自分が遺書を書くとしたら、誰に向かって何を書き残しておきたいのだろうか、そんなことが気になった。だから、書いてみようかと思う。

 なぜ人は自ら命を絶つのだろう。ご存知だろうか、自殺者の7割は遺書を残さないと言うことを。
 僕は思う。死にたくて死ぬ人間がどれだけいるのだろうかと。多分、彼らは死にたかったのではなく、ただ、疲れたのではないか。そう、なぜか思うのだ。彼らが欲しかったのは「死」ではなく、長い、いつまでも続く眠りではなかったかと、時々思うのだ。

 自分はいま幸せだろうか?多分、そうだと思う。不満は無くはない。当然だ。しかし、客観的に考えれば幸せな人間だと思う。だから、僕が死ぬとしたら、不幸ゆえではないと思う。思うのだが、なぜ死ぬのかという問いは、なぜ生きるのかという問いと直結している。いや、これはコインの表裏だ。生きる理由はそのまま死ぬ理由ともなりうる。そう、なり得るのだ。

 多分、僕は大きな境目にいるのだと思う。自分自身が大きく変わろうとしている。どことなく、そのような予兆がいたるところに見える。一昨日アドレス帳の三分の一を消した。うわべだけの人間関係に嫌気がさしたということもある。しかし、自らを解き放つ準備だったような気がする。

 ここに一つの卵がある。巨大な卵だ。強固な殻だ。中にいるのは僕。孵化するか、中で腐り果てるか、その境目なのだ。僕は殻を破ろうと、必死で中から突いている。そんな気がする。

 部屋にある必要の無いものはあらかた捨てた。そのあまりにも多さに驚いた。しかし、必要の無いものは他にもたくさんある。いや、必要のないと言う言い方は語弊があるかもしれない。自分と縁が切れたものと言えば正確だろうか。

 すべては「縁」によって成り立っている。これは真実だと思う。人と人の「縁」、人のと物との「縁」…関係を紡ぐことで人は生きていく。絆は生まれ、絆は死ぬ。始まりもあれば終わりもある。思うのだ、すべての「縁」には役割があると。ひとつひとつの「縁」は、神様からのプレゼントなのだと思う。「縁」は与えられる。しかし、それを生かすか殺すか、ここに人の自由があるのではないだろうか。

 よき「縁」はよき実を結び、悪しき「縁」は悪しき実を結ぶ。どちらにせよ、ひとたび実を結べばその「縁」は終わる。その時、別れは本来ならばお互いを自由に世界の恵みに委ねるという積極的な意味合いのものであるはずだ。しかし、人の悲しさは、本来永遠でないものを永遠に生かそうとする業だ。人は「縁」によって生き、そして生かされる。そのことは誰もが漠然と感じているのだろう。だから、紡がれたひとつひとつの「縁」に、時としてしがみつき、お互いを傷つけあう。せっかく結ばれたよき実を自らの手で腐らせてしまう、この愚かさ。

 なぜ?それは、人が世界を、自分の運命を信頼することができないからだと思う。命という大いなる贈り物の意味を信頼することができないから。ひとつひとつの何物にも代えがたい「縁」、絆を紡いでくれた運命の力を心から信頼し、身をゆだねることができないから。つまるところ、世界と自分の絆、まさしく「縁」を信じることができない人間は、他の「縁」も信じることができない。だから、別れの意味を味わうことができない。感謝と喜びの中、「縁」の終わりを見届けることができない。

 本を集める癖がある。だから、最初、本を捨てることに非常な抵抗があった。しかし、思った。自分はこれらを捨てているのではなく、自由にしているのだと。見知らぬ誰かと新たな「縁」を紡ぐために自由にしてあげているのだと。そうなのだ。明らかに自分とこれらの本との「縁」は、とうの昔に終わっていた。しかし、僕は僕自身の業ゆえに、それらを解き放ってやらなかった。それが、お互いを腐らせた。そういう気がする。

 人と人の絆も同じことが言えるのではないだろうか。中学や高校時代、あれほど仲が良かったにも関わらず、連絡を取る気がしない人間が何人か居る。別に嫌いになったわけではない。ただ、億劫なのだ。おそらく、連絡を取る必然性が無いからそう感じる。僕とその人は、おそらく「今」を共有していないし、してはならないのだと思う。逆に、「過去」を共有しているからこそ、何年に一度かくらいに会うことに意味があるのだろう。よい実をすでに結んでいるからこそ、それを二人で振り返ることができる。それは、正しい別れがもたらしてくれたものなのだ。

 なぜこんなことを書いているのか自分でもわからない。ひとつ確かなのは、死とは世界との「縁」の終わりなのだと思う。ただ善く生きるかそうでないかで、よき実を残すか、悪しき実を残すかが決まる。僕はいったい何を残すことができただろうか。もし、ここで死が訪れるとしたならば、このままよきもの何一つ残さず朽ち果てていくこの身の呪わしさよ。そう、死にたくはない!!断じて!!

 時々、フッといなくなってしまいたいと思うときがある。どのような手段を使っても、自分自身であることから逃れることはできない。自分自身として「在る」というこの事実こそ、無限の恵みの源泉だ。それは否定しない。しかし、それは同時に自分自身で「ない」ということによって得られるすべてを諦めるということでもある。僕は自分自身であることから得られる恵みの豊かさをよく知っている。しかし、それと同じくらいに自分自身であるがゆえに得ることのできなかった恵みの豊かさもよく知っている…それこそ焦がれるほどに。自分自身であることからは逃れることはできないが、ここから「いなくなる」ということによって、自分自身をなくすことはできるのではないか。多分、そんなことを心のどこかでいつも考えているところがあるのだと思う。

 明らかに、この考えは裏切りだろう。この「命」を与え、そして育んでくれたたくさんの「縁」への。そして、いま自分を必要とし、愛してくれる人々への。そして、反逆であろう。自分が、自分自身として「在る」という事実に対しての。しかし、同時に思うのだ。おそらく、心のどこかで、結局誰一人、自分を必要としてくれていないと信じ込んでいるところがある。それゆえに、恐ろしいほどの乾ききった空虚さを感じるのだと。この空虚さが、結局のところ僕を殺すのだ。

 そう、もし今の時点で僕が死ぬとするならば、もしそれが事故やそのほかの偶発的な理由によるのではないのならば、僕はこの空虚さに殺されて死ぬのだ。誰からも必要とされていないという妄想が魂を食い荒らす。妄想だとわかっていても、それは言いようのない吐き気を魂にもたらす。もしかしたら、終わるべき「縁」にすがりついているのかもしれない。そういった恐れが僕を殺す。いまある「縁」がすべてと思い込むことで、未来が紡いでくれる無限の可能性を信じることのできない、この心の弱さが僕を殺す。この空虚さ、それは徒労感。ただ、疲れ果てて路上に倒れるのだ。生きたいと心の底から願い、助けを求めながらも一人で消えるのだ。この誰からも必要とされていないという空虚さに殺されるのだ。

 しかし、僕は生きたい!!何が何でも生き延びたい。だから、勝たなければいけないのだ、この空虚さに。多分、そのために魂の奥底で何かが変わろうとしている。静かな変容のプロセスが、彼方の地響きのようにこだまする。そして、僕も変わりたいと心から思う。だから、大げさではなくて、自分はいま生と死の境目にいるのだと思う。今のままでは、殻のなかで腐って死ぬ。古く、死に行く「縁」にすがりついたまま魂が死んでいくのだ。

 だから、自分は変わろうとしているのだと思う。自分自身として生まれ直すことによって、古き「縁」をすべて解き放とうとしているのかもしれない。そのことにより、はじめて世界の豊かさに身を委ねることができるのだと思う。新たな絆が織り成されるがままに任せることができるのだと思う。そして、解き放った古き「縁」は、解き放つことによりよい実を結び、新たな自分と世界、そして人々が紡ぐ新たな絆の土壌となる。そういう気がする。変容か死か、その狭間にいま自分はいるのだと思う。そして、どちらが勝つかは…そう、自分でもわからないのだ。それくらい、いまの自分は闇の中にいるのだと思う。

 しかし、こういう異様な徒労感、空虚さに襲われるときは異常なときだということを僕は知っている。だから、非常に冷静にこういった気持ちと距離を置くことができていると思う…少なくともいまのうちは。ただ、時のなすがままに委ねよう。そう、思う。

 もし、僕が敗れるとするならば…何を誰に言い残すだろうか。遺物…書籍の類はすべて売り払って欲しい。きちんとした賢い人の手に渡れば、きっと素晴らしい実を結ぶであろうものばかりだから。楽譜や音源、CDやMDなども同様にして欲しい。万が一、PCの中身が残っている場合は、読まずに完全に消去して欲しい。E-mailなどは特に。個人的な書簡や写真の類も焼き捨てて欲しい。できることなら、自分の痕跡を一切残して欲しくないのだ。携帯電話はロックをかけているから、そう問題は生じないだろう。花瓶の花の手入れを誰かがしてくれると嬉しい。それから、葬儀はしないで欲しい。遺体は埋葬ではなく、散骨がいい。

 あぁ、まさかそんな自己中な事柄しか浮かんでこないとはね。なんとも、くだらない人生であることよ!!

 伝言など一言以外は何も思いつかないのだ。ただ、「ゴメン」と。誰に対してもそうだ。家族だろうが、友人だろうが、大切な人だろうが、それ以外に思いつかないのだから不思議だ。なるほど、自殺者の七割は遺書を残さない。当然だな。理由の無いまま自殺者の多くは殺されるのだ。なるほど、本当に死ぬとしたならば、遺書など残さないかもしれぬ。

 そう、だから逆にこんなところで死んでたまるかとも思うのだ。なぜこれを書いているか、それは正直自分でもわからない。ただ、書いてみたかったからとした言いようがない。生きたい、生きたい…そう、本当に生きたい。これを書くことで、それを痛感した。だから、かえってよかったのかもしれない。いままでの自分がいったいなんであったのか、少し振り返ってみたい。いままでの23年間を、ゆっくり味わう必要がいまある気がする。

 とりあえず今夜は眠ろう。眠るためではなく、明日のために。そう、思えることは、多分幸せなことなのだ。神様、ありがとう。

この記事へのコメント


‘そのとき’は、「ありがとう」と微笑んで逝くのが、わたしの願いです。
大げさに言えば、それが人生の最終目的と言えるかも。

遺書、わたしも書いておこうかな・・・。

寝太郎さん、でも、生きよう! 神さまが呼んでくださる日まで。

Posted by あつこ at 2005年03月07日 20:21

>あつこさん

 …ですね。

 僕もそう思います。

 だからこそ、そう言って逝ける生き方をしなきゃならないんですよね。

 ありがとうございました。

Posted by 寝太郎 at 2005年03月08日 00:00

いつも拝見させていただいています。

わたしは心臓病(といっても大したことないんですが)が見つかってから、「遺書に何を書くか」というのを考えるのが、妄想のネタの一つになりました。
結構楽しいんですよこれが(笑)

それと、こころの病気のために、一切根拠レスで、なんかようわからんけど死んでしまいたいかも、というのと闘うのは結構しんどいですよ。だって根拠レスだから考えても出口がみつからなくって。

そういう時は余計なこと考えずにふらっと旅とか散歩に出るとか、寝ちまうとか、好きなマンガを読むとかが一番っすよ。

Posted by porcius at 2005年03月09日 01:40

>porciusさん

 はじめまして。こんにちは。

 暖かいアドヴァイスありがとうございます。実は去年の夏にも著しく心身が消耗したことがあったのですが、その時は旅行ばかりしていました。

 旅行行くお金もないので、漫画でも読もうかな。久しぶりに「めぞん一刻」など。

 コメントありがとうございました!!

Posted by 寝太郎 at 2005年03月09日 12:42

はじめまして。私も、同じ23歳です。
前々から、遺書を書くつもりでしたが、きちんとした形に残るものにしたかったので、公正証書遺言を書こうと公証人役場へこの間行ってきたのですが、そこのおじさんに軽くあしらわれました。

 23歳って若いのかな?人っていつ何があるかわからないから自分の思いを残された人にちゃんと伝えたい。心で思っているだけでは、何も思っていないのと同じだと思う。

 公正証書遺言というのは沢山財産のある人が作る物らしい。確かに私はそれほど財産と呼べるほどの者はない。しかし、私を心のそこから支えてくれる人へそれをすべて贈りたいなと思ったんだ。残念ながら、それが両親ではないということなので、力のある書類ということで公正証書遺言というわけなのさ。

 寝太郎さんも、ふと思って遺書らしきもの書いたみたいだけど、そのふっと思ったことを実行することがなにより今は大事かなと。

 わたしも、休日は午後まで寝たりしてて意味なくすごしているけどやるときゃやるさ。でもまた、次にの休日も午後までねてしまいそうだな。

Posted by 飛行機雲 at 2005年03月15日 23:33
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