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例の「女子高生」問題について再び 

 先日書いたまなざしと美醜~「醜い」女子高生に思う~ という記事ですが、予想しなかったほどの反響があり驚いています。

 たくさんのコメントやトラックバックをいただき、なかなかコメント欄が面白い事になっています。幾つか、本文で触れる事のなかった論点が出てきているので、転載してみました。よろしければ、ご覧になってください。

 幾つか短いながら雑感。

1)願望と決め付け~あぁ、少女たちよどこへ行く~

 女子高生の年齢というのはフロイドの言うところのリビドー(性的衝動)のもっとも高まる年齢だ。にもかかわらず「乙女」という言葉があるように「清ら」の象徴的年齢でもある。
 この引き裂かれた心と身体のいかにセルフコントロールするか。欲望肯定社会が極みに達している今日の状況下においては難しい問題だ。

日本をあきらめない(2)より


 あつこさんが微妙に指摘されておられたのだが、やはりこの箇所は僕も読んでいて違和感があった。言い方は乱暴だが、「なにを寝言を言っているのだ」ということを感じた。

「女子高生の年齢…「乙女」という言葉があるように「清ら」の象徴的年齢」…この箇所を読んで、僕なんかはあつこさん同様「ハァ、そうですか」と首を傾げてしまう。

 彼がそういう女性観をもつのは彼の自由だが、見るべき現実以前に彼の女性観、女性に対する(僕にいわせれば)勝手な願望が反映されている見方なのではないかと感じてしまう。女性というよりも、ああいう年代の少女たちを神聖視したいと思うう、世の多くの男衆に割合共有されている不思議な願望が、やはりこの藤原氏にも見て取れる。(僕は前から、モーニング娘とかああいうのがウケル背景にはそういう潜在的な願望があるのではないかと思っている)


 ジェンダー云々という話はまったく興味がないのだが、しかし、こういう女性の聖化願望こそある種のジェンダーバイアスの根幹にあるのかなという気がする。これはこれで考察の対象としては面白いのかもしれないが、公共の場での迷惑行為という問題意識に微妙にジェンダー・バイアスが混入しているのは、やはり問題だと僕は思う。

2)無責任な議論の一般化という問題

「議論を一般化したり全体化したりするのって、自分自身はきっと痛くもかゆくもないから、つい犯してしまいがちな過ち」ということをsayakaさんがコメントで書いてくださったのだが、的確でいい表現だと思う。

 それをうけて少し考えたのだが、やはりある人びとや集団を「モノ化」するような視線の原因のひとつは、こういった安易な一般化なのかもしれない。たとえば「女子コーセー」というレッテルでくくってしまうことにより、物事は格段にわかりやすくなる。さらに、そういった一般化により物事は客観的かつきわめて抽象的な問題となってしまい、そこで問題の直接性、具体性が失われる。文字通り目の前で何が起こっていようが、自分は直接リスクを犯さず、ただ嘆き、また批判するだけで良心を満足させられるような状況がうまれる。自分は安全圏にいながら、あたかも世の中の正義のために一役買っているような安心感を得られる。それが、安易な一般化の原因であり、結果として対象の「モノ化」へとつながっているのかもしれない。

 これは、杉田敦が指摘する「境界線」の概念と相通ずる問題ではないかと思った。

3)誰が裁かれるべきかという論点

 そもそも、ここで写真の女子高生たちを「醜い」と決め付けること自体が間違いであり、こういった価値判断は「人間の中にある自分とは違う者たちを見下してしまう罪の性質だと思っています。」というコメントをはんなさんからいただき、しばらく考え込んでしまった。

 しかし、僕はやはりこれは違う問題だと思う。われわれが、はんなさんのご指摘になられた形ではみな罪を犯しがちであるというのはその通りだろう。しかし、写真の女子高生たちに対してその行為の責任を問い、美的・倫理的判断を行使しないで彼女たちを受け入れることが出来るとは、僕には思えない。同様に、彼女たちを恣意的に排除し、レッテルを貼っている側の目線の責任を問わずに、和解が成立するとは思えない。

 少し大げさな言い方になるが、罪を裁いたうえで相手を赦すのと、罪がなかったことにして問題をあやふやにしてしまうことは、似ているようで根本的に違う。これは一般論になってしまうが、ある問題を解決するにあたっては、まず責任の所在を明確にしなくてはならない。安易にこういった問題を、ある種の普遍的な罪の問題だけに限定してとらえてしまうことは、かえって多くの人を傷つけたまま現状を放置する結果につながるのではないかと僕は思う。

以下コメント転載
君に問題を投げかけて良かった!
寝太郎さま
すばらしい記事に展開してくださり感激しております。

この電車がどこを走っているのか知らないのですが
昭和25~30年代の「千葉のおばさん」と呼ばれていた担ぎ屋さん達の逞しい姿がふと思い出されました。
都内の電車を占領し大声で笑う彼女たちの徒党を組んで運ぶ野菜で生きていた都会人だったのも事実です。

どこでも座り込む姿は逞しかったけど醜くは無かった・・・

生命力の迸りがありました。

この女学生が醜くくみえるのは生命体としての覇気が感じられないからでしょう。
どんな眼差しを彼女達に注げばよいのか、考えてしまいます。

* [2005/09/22 12:01]
* URL |
* patra
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なるほど~。

記事を読ませていただき、また大きく頷かせていただきました。
「問われるべきは、自分自身のまなざしの質なのだ。ゆえに、自分は理不尽を承知で、あえて論者に問う。『あなたはカメラを向ける以上の働きかけを彼女たちにしましたか?』と。 」

おっしゃるとおりですね。
社会が、人間が、○○が悪いから・・・という、一般化した主語を用いての議論はどうも現実味がありません。一番大切なのは、「あなたの目線で見たとき、あなたはどうしようと思いますか?」ってことなんでしょうね。
議論を一般化したり全体化したりするのって、自分自身はきっと痛くもかゆくもないから、つい犯してしまいがちな過ちなんでしょうけれど。

私も地元では高校のときから7年ほど電車通学をしていました。
「それはないでしょう・・・。」と、目を疑いたくなる光景もしばしばありました。

もう結構前のことなので何に対してだったかは忘れましたが、ある日、どうしてもそのままにしておけないなと思うことがあり、ある女の子に「そのことはあんまりよくないと思うから、やめた方がいいよ。」と伝えた記憶があります。

その子はいきなり話しかけてきた私にびっくりしていたというのしか覚えていませんが、私もその子に声を掛けるまでは、「どうしようかな。なんて声を掛けたらいいかな。」と電車に揺られながら考えていました。

私からすれば、「私は何も知らないよ~」みたいな顔をしている大人の通勤者の方々が、その時不思議に見えてならなかった印象があります。

目の前にあるのは、他の誰かの問題じゃなくて、「わたし」の問題。

寝太郎さんの鋭い視点、今日も参考になりました。
ありがとうございました。
(^▽^)

* [2005/09/22 15:39]
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* sayaka
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早速、勝手ながら記事を参考にさせて頂きました。
トラックバックもさせて頂きました。
ありがとうございます。
m(_ _)m

何か差支えがあれば、お教えください☆

* [2005/09/22 17:49]
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* sayaka
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とんでもないです
>Patraさん

 貴重な情報、本当にありがとうございました。前から書きたかった内容だったので、いいきっかけでした。

 うん、生命体としての覇気がないっていうのはわかる話です。泥臭い生活感というか、そういう生命力がない単なるだらしなさって言うんでしょうか。

 僕は現代しか知らないので、こういうものは当たり前の情景かと思っていましたが、やはりそういうことはないのですね。あらためて、いろいろ考えてしまいます。

* [2005/09/22 20:39]
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* 寝太郎
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>sayakaさん


>議論を一般化したり全体化したりするのって、自分自身はきっと痛くもかゆくもないから、つい犯してしまいがちな過ち

 そう!!それが言いたかったんです。自分自身は痛くも痒くもないけど、なにかたいそうな事を言った気になる。言ってみれば、自己満足ですよね。そういうのって、もちろん陳腐なんだけれど、それ以上にとても残酷で無責任だと僕は感じてしまいます。

 それにしても、sayakaさんは勇気があるんですね。僕なんか、こんなえらそうなことを言っている割には、ほとんどそういう注意はしたことないんです。なんだか、圧倒されちゃうんですよね。唖然とするというか。ああいう光景って。

* [2005/09/22 20:45]
* URL |
* 寝太郎
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こんばんは。
朝、この記事を読んでから何かがモヤモヤしています。まだ言語化できないのでひとつだけ。
女子高生たちは人目を全く意識していない訳ではないのでは? ほんとうは誰かに見てほしい、関心をもってもらいたいと思っているのでは?
「彼女たちひとりひとりをそのありのままの姿で」受けとめる大人が、彼女たちのそばに一人でもいたなら・・・と書くのも、「良心的気休め」であり「一般化」なのかもしれませんが。
でも「オバタリアン」でも、「片付けられない女たち」でも、この「自身をゴミ化する女子高生」でも、槍玉に挙げられるのは女性というのが、なんだかなぁ・・・。

* [2005/09/23 20:23]
* URL |
* あつこ
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はじめまして!
寝太郎さん、はじめまして。
awayと申します。
あつこさんのところからやって参りました。
このサブジェクトについてはあつこさんのところにコメント
させて頂きました。

| 可能ならば、彼女たちの醜さの背後にあるゾッとするような
| 「孤立」と、それを生み出しているわれわれ自身の業から
| 眼をそらさないでいたい。

おっしゃることに同意いたします。
この「孤立」、彼女たちだけのことではありませんよね。
自分に直接関係ない人達のことを「関係ない」と目をつぶる
ことに僕たちは馴れてきているのだと思います

ある本に「欲望が解放されつつある今、真面目な人を中心に
まだ自分の欲望を抑制することが正しい、と思っている人達
がいて、そういう人達は他者の気ままな欲望充足を見て腹を
立てる。それぞれが抱えている欲望の充足に対してお互い邪魔
をしない、ということが社会の暗黙のルールになるまでの今は
過渡期だ」と書いているものがありました。
その理屈で行けば、我々はまだまだもっと馴れないといけない、
ということでしょうか。

しかしそうやってお互いの「聖なる欲望充足」を一番素晴らしい
ものとして、その代償として内輪以外の行動は見て見ぬ振りをする
世界は、少なくとも僕が住みたい世界ではありません。
そんな世界は、すごく寂しい世界だと思うから。

# 差し支えなければこちらをリンクさせて頂きたいと思います。
  よろしくお願いします。

* [2005/09/24 16:11]
* URL |
* away
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他人の気持ちになって考える
>あつこさん

 そうかもしれませんね。人目をまったく意識していないというのは、ないのかもしれません。むしろ、過剰に意識したうえで、それを拒絶しているのかもしれませんね。…そこまでの自己主張があってのあのスタイルかどうかは、正直疑問です。だけど、何らかのアピールは潜在的にあるのかもしれません。僕にはわかりませんが。

>でも「オバタリアン」でも、「片付けられない女たち」でも、この「自身をゴミ化する女子高生」でも、槍玉に挙げられるのは女性というのが、なんだかなぁ・・・。

 男というものは、とかく女性全般に対して無責任でくだらない幻想を抱きがちなのだと思います。人間なんて、基本的にいい加減でだらしない生物で、それは性別を問わないものなんだと僕なんかは思うんですけどね。(笑)

* [2005/09/26 18:55]
* URL |
* 寝太郎
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awayさん、はじめまして
>awayさん

 はじめまして、こんにちは。

 とても大きく、また重要な問題提起をありがとうございます。たぶん、awayあんの論点は、突き詰めていくと思想史的には価値相対主義の問題につながるのだと思います。


>お互いの「聖なる欲望充足」を一番素晴らしい
ものとして、その代償として内輪以外の行動は見て見ぬ振りをする
世界は、少なくとも僕が住みたい世界ではありません。
そんな世界は、すごく寂しい世界だと思うから。

 本当におっしゃるとおりですね。互いの多様性を認め尊重し合うということは大変聞こえがいいです。しかし、往々にしてそれは単なる相手に対する無関心―あるいは僕が本文で使ったことばで言うならば「モノ化」―へとつながってしまうことは忘れてはならない事だと思います。まさしく、愛の反対語は憎しみではなく、無関心であるといったところでしょうか。

 しかし、相手を変えることで救済しようとすると、それは究極的には原理主義のメンタリティへと限りなく近づきます。誰もが共有できる絶対にこれが正しいというあり方が失われてしまった現代という時代は、まさしくパラドックスそのものがリアリティとなった時代なのかもしれません。

 では、放任と無関心、あるいは原理主義的ユートピア主義の二者択一しかわれわれには残されていないのでしょうか。論理的にはその通りでしょう。

 しかし、僕は突破口は必ずあると思っています。そして、そのキーワードは「世界への愛」―多様で、予測不能で、理不尽で、醜いわれわれの世界を、そのあるがままに受け止め、愛すること―だと感じています。

 世界を愛する人間は、醜いからといってそれを壊そうとは思いません。ユダヤ人が目障りだから、消し去ってしまおうとか、過去の歴史が目障りだから恣意的に書き換えてしまおうだとか思う連中は、ようするに世界を愛していないんだと僕は思っています。

 世界に溢れる醜さを憂うなら、それを消し去ることを考えてはならない。そうではなくて、より美しいものをつくりだして、世界をそれで飾り立てればよい。

 女子高生が醜いということを憂うのは誰だってできます。問題は、その現実をどのように受け止め、より美しいものをつくりだすためのきっかけとするかどうかではないでしょうか。

 女子高生を裁くのは誰だってできます。でも、裁くことで女子高生が変わる事はあり得ません。彼女たちの現実を現実として受け止め、対等な人間としてかかわっていくこと。そうしたなかで、お互いが学び、よい方向へと変わっていく。

 根本的な変革というものが可能であるとするならば、それは、こうした「愛」の関係性のなかでのみ可能ではないかと僕は思っています。

 コメントありがとうございました。リンクはどうぞご自由にされてください。そんな嬉しいこと、僕にことわる必要ないです。もう、大歓迎!!ありがとうございます。

* [2005/09/26 19:20]
* URL |
* 寝太郎
* [ 編集 ]
* TOP ▲

リンク許可ありがとうございます。
寝太郎さん、リンク作業完了しました。
快諾いただきありがとうございました。

| 突き詰めていくと思想史的には価値相対主義の問題に
| つながるのだと思います。

ええ、まさにおっしゃる通りで「善とは主観的で相対的な
ものなのか?」という問題ですね。
そこを考えてゆくと自由主義の根本的な問題に突きあたる
ことになると思います。

| 根本的な変革というものが可能であるとするならば、それは、
| こうした「愛」の関係性のなかでのみ可能ではないかと僕は
| 思っています

僕のブログの昔のエントリで「個人とは、決して真空を無秩序
に飛び回る原子ではない。」と書きました。世界とは、社会とは、
人と人のつながり(関係性)そのものであると思っています。
寝太郎さんのおっしゃることに同意いたします ^^

# お暇な時にぜひ当ブログもぜひ覗いて下さい。
  音楽の趣味などもとても近いです。興味を持って読んで頂けたら
  嬉しいです ^^

* [2005/09/26 21:38]
* URL |
* away
* [ 編集 ]
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醜いと言う前に。。。
誰でもこんな時期があるでしょう?
私でも、同じ格好はしませんでしたが、世の中に対してしらけていた時期がありました。
「醜い」と決め付けてしまう前に、なぜこの子たちに幾ばくかの愛情がもてないのでしょうか。
この子たちはモノではありません。
心があり、精神があり、ちゃんと考えて感じている子たちです。
私は大人が悪いともこの子たちが悪いとも思いません。
人間の中にある自分とは違う者たちを見下してしまう罪の性質だと思っています。
あなたはかつてこんなふうではなかったのだろうかー醜いと書いた人に聞いてみたいです。

* [2005/09/27 13:19]
* URL |
* はんな
* [ 編集 ]
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人とのつながり
>awayさん

 おっしゃっること、よ~くわかります。ブログはお邪魔しました。

 これからもよろしくお願いします。

 

* [2005/09/29 04:10]
* URL |
* 寝太郎
* [ 編集 ]
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でもね、はんなさん
>はんなさん

 いろいろ考えてみました。

 はんなさんのおっしゃることはよくわかります。僕自身も、引用先の藤原某氏の見解には同様の違和感を感じたことは事実です。

 しかし、やはり僕はああいう光景は「醜い」と思う。

 彼女たちは「モノ」ではないと知りつつ、気づけば彼女たちを道端に転がる犬のフンのような「モノ」としてみてしまっている自分がいます。

 理由は簡単です。僕は彼女たちのひとりひとりと人格的なかかわりを持っていない。だから抽象的な「女子コーセー」というレッテルでひとくくりにしている。こういった、恣意的な単純化を行っているから、彼女たちに対して人間関係を確立することができないのです。

 つまり、僕が言いたいのはこういうことです。もしかしたら僕は彼女たちひとりひとりを個別に愛する事は可能かもしれないし、そうすべきです。けれど、いかなる形においても彼女たちを「電車のなかで醜態をさらしている女子コーセー」の集団として肯定することはできない。そういうことです。


 それはよいことだとは思いません。しかし、残念ながらそれがいまの自分にとっての事実です。

 はんなさんは

「私は大人が悪いともこの子たちが悪いとも思いません。」

 とおっしゃいました。それはそのとおりかもしれません。けれど、同時にそれはすべての責任を曖昧にする考え方でもあります。

 はんなさんは誰でもこういう時期があるから、彼女たちには責任がないということをはんなさんがおっしゃりたいのでしょうか?もしそうであるならば、僕はその考えには同意できません。彼女たちの心情や境遇に同情することと、彼女たちの公衆の面前でのあり方を免責することとはまったく別問題だと僕は思っています。それは、あくまで情状酌量の余地があるということであって、彼女たちの責任がなくなるということではあり得ません。

 「あなたはかつてこんなふうではなかったのだろうか」という問いに対しては、はい、そうでしたしいまもある意味ではそうですとお答えしたい。僕自身、かつては社会の「空気」に対する違和感と反発からたくさんの奇行を犯しました。いまだって、企業社会に受け入れてもらえない自分、認めてもらえない自分に対して焦りを感じるとともに、そうした社会を呪い、粉々にぶち壊してやりたいというネガティブな気持ちをどこかに抱えていることを否定しようとは思いません。そういう意味では、僕は写真の彼女たちと潜在的には同類です。

 だけど、僕は僕自身が社会から受け入れられず、また社会の目線が僕を評価してくれないことを他人のせいにしようとは思いません。第一に悪いのは紛れもなく自分です。自分が自分自身として生きるということは、自分自身として見られ、量られる責任を伴うということではないかと僕は考えています。

 僕は思うのですが、愛するということは、無条件に免責するということではないのではないでしょうか。赦すという行為は、免責とはイコールでないはずです。「あなたたちの中で、一度も罪を犯したことの無い者が、最初にこの女に石を投げなさい」というイエスのことばは、決して罪をなかったことにしているのではないと僕は思います。

 僕は本文で「彼女たちをありのままで受け止め」なくてはならないという趣旨のことを書きました。ありのままで受け止めるということは、彼女たちを全面的に肯定するということではありません。まず前提として彼女たちの責任、その行為の醜さを問いつつ、同時に彼女たちを裁き、排除しているわれわれの目線を問わなくてはならない。それらをすべて事実として受け止めた上で、赦し、愛する道を模索しなくてはならない。言い換えれば、裁く側としての自分と裁かれる側としての彼女たち、双方の罪を自覚したうえで、その果てしない断絶を埋めるような和解の道、ともに歩み世界を分け合うことのできる道を探していかなくてはならないということを申し上げているのです。

 だから、もし僕のはんなさんの意見に対する受け止め方が間違っていないとしたら、少しこういう現象について、僕とはんなさんの見方は違うのかもしれません。この問題は、少し継続的に考えてみたいと思っています。ぜひ、コメントしていただけたら嬉しく思います。
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コメント

風景のミスマッチ

うちのブログへ遊びに来て下さり感謝です。

コアなエントリが目にとまり、初コメントながら本音を書かせてもらいますね。
くだんの写真を拝見させてもらいましたが、日本人のルーツはやはり南方ポリネシア系なのかなァという感想が真っ先に思い浮かびました。けっして揶揄しているのではなく、彼女たちの地べた(車内の床)に座る姿がいかにもリラックスしているので。
むしろ不似合いなのは、西欧産業革命の産物である電車(大袈裟な言い方ですね)やセーラー服じゃないかと。
「南島の少女」と「近代都市風景」の合成写真みたいで、そういう歴史を歩まざるをえなかった日本人の「しぐさの文化」の複雑さを感じてしまいました。

はじめまして

ブログジャンキーから来ました!
記事が気になったので
「まなざしと美醜~「醜い」女子高生に思う~ 」も
読ませて頂きました。

写真を見た感想は
こりゃ~全車両「お座敷列車」にしないとダメだなと(笑)

あと、この子達のことを「ゴミ」とか「犬の糞」のような
『醜いもの』という感覚は私には無い。
言うなれば【得体の知れないもの】でしょうか。
敢えて人として見た場合は「気がふれてる」と思う。
自分の思考を超えた所に存在しちゃってんだな。
だから対応がわからない
(関わり合いになりたくないってのも含めてね)
ってのが現状。

一般的な常識を備えた人達が彼女達を理解しようとあれやこれや考えてっけど
この子達のやってることに思ったほどのメッセージがあんのかも疑問。

寝太郎さん、こんにちは。

こちらの記事からトラックバックさせて頂く形で「無責任な議論
の一般化」について書かせて頂きました。(一部、こちらのエン
トリの内容紹介もさせて頂きました。)

よろしくご了解下さい。

脱亜入欧型思考の穴

>佐伯シリルさん

 コメント&トラックバックありがとうございます!!

 で、感想なんですが、妙に納得してしまいました。なるほど、そもそも不自然なのは洋式文明の文脈を汲む日本の電車のスタイルなんですね。

 なんていうか、すごく盲点でした。僕は人生の前半15年をヨーロッパで過ごした人間なので、どうしてもそういった脱亜入欧的な視点が暗黙のうちにあるのかもしれません。

 確かに、そういって民族性という視点から見ると、かえってあの女子高生の有り方のほうが自然に見えるから不思議なものです…僕の感性とは相容れませんが。(笑)

得体の知れないもの…

> ohyaiさん

 なるほど、得体の知れないという感想はとても率直だし、実際的を得ていると思います。

 たぶん、僕が醜い云々と思うのは、おそらくどこかで条件反射的に自分が醜いと思うものを切り捨てようとしてるのかもしれません。

 それにしてもお座敷車両…いいかも。(笑)

ありがとうございます!!

>awayさん

 トラックバックありがとうございます。感想はそちらのコメント欄の方に書き込ませていただきました。

 それにしても、問題意識を共有して、一緒に考えていただけるのはとても嬉しいことです。

 いろいろな意味で、これからもよろしくお願いします。

私が来ないうちに、いろいろな方たちが意見を書かれていて議論が発展したようで、いいですね。
まず1点。「罪」についてですが、私は「罪を犯す」とは一言も言ったことがありません。私が言いたかったのは、人間の中にある「罪の性質」のことです。
これ、犯罪とは違うんですよ。
で、本題ですが、「大人が悪いともこの子たちが悪いとも思いません」と言ったのは、ある意味、やりきれなさを込めてのアイロニーでした。
本当に悪くないと思っていたわけではないのですが、彼女達の写真を撮った人、彼女達を「モノ」と言った人、そういう人たちへの反発でした。
本当に彼女達が醜いと思うのだったら、なぜ、その場では注意もせずに写真を撮ったのでしょうか。写真を撮ったのはあとで批判するため?彼女達がこんなにも醜いかっこうで坐っているよと公にまつりあげるため?なぜ、その場で注意しなかったのだろう?
カメラマンという職業意識で写真を撮って、世間に公表し、その上で批判したかったのでしょうか?これってフェアじゃないと思いますよ。
私はよく目にあまる行為を見るとその子たちに言います。黙って見ているということはその子達の醜態や、醜態をしても許されるという意識を暗黙のうちに認めているのと同じです。これは大人として無責任です。もし、注意してもやめないのなら、その子たちの親たちがきちんとしつけてこなかったのだと思いますね。
十代(二十代もそうですが)の時期、何が醜態かわからず社会に迷惑をかけてしまうことはたくさんあります。社会の中での「節度ある態度」がまだわからない時期です。でも、大人がそういうのを見たらきちんと言うべきだと思うのです。
日本の社会で、今、大人たち(あるいは一般的に)、少し無責任ではありませんか?もう少し、言ってもいい、言わなければならないと思いますよ。
この子たちにもっと愛情があれば(愛情がむずかしければ、この子たちにもっとあたたかい気持があれば、と言いましょうか)、彼女たちを写真に撮ろうとする態度や心構えが違ってくるのではないでしょうか。彼女達にあたたかい気持があれば、最初からこういう写真は撮らなかったに違いない、撮れなかったはずだと思います。

あぁ、そういうことですか…

>はんなさん

 なるほど、それならわかります。

 たぶん、ああいう風に晒して論評して、えらくなった気分でふんぞり返る雰囲気は、ひとつはあの文章を書かれた方がジャーナリストだからなのでしょうね。しかも、後から知ったのですが、実は割りと高名な方らしい。(笑)

 また、ご本人の写真を見る限り、なかなか年配の方らしい。だから、ああいう口調になるのかもしれませんね。

 確かに、個別から出発して一般的な問題として物事をとらえることは思考の態度としては大切です。だから、必ずしもああいったエントリーそのものが悪いとは僕は思いません。ただ、やはり彼女を時事評論のネタとして「モノ化」して晒している雰囲気というのはむんむんと僕も感じて違和感を覚えました。

 …まぁ、僕のエントリーも人のことは言えないんですが…。

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内股で歌え君が代

『無責任な議論の一般化』について

寝太郎さんのブログ「うたたねの記」のエントリ
  • [2005/10/02 13:49]
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