スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

まなざしと美醜~「醜い」女子高生に思う~ 

 まず、こちらのリンク先の写真を見ていただきたい。撮影者の方はこれを指して「乙女年齢の子が自身をゴミ化するような状況」となかなか痛烈な批判をしている。そういうわけだが、彼女たちが自分を「ゴミ化」してしまうのはなぜだろうか。

 人間の生き様の美醜を考える際、その人が誰に見せようとしているのかということほど重要なことはあるまい。あるいは、こうともいえる。人の美醜は、誰の目線を意識しているかによって大きく左右されると。
 われわれはこのような写真を観ると、あまりにもの醜さに愕然としてしまう。しかし、一方で彼女たちはわれわれの目線など気にしていない。彼女たちは社内のほかの人びとに代表される世界の人びとの多数を「人」としてみず、「モノ化」してしまっているのだ。だから、その目線も気にならない。

 彼女たちが「人」として見ることができるのは、おそらく狭い内輪の仲間たちだけ。その、限られた「人びと」に対していかにみせるかが彼女たちの美的感覚。そのように、見せる人びとを限定してしまうことにより、彼女たちからは60億の同胞と共感し、連帯する可能性が奪われている。彼女たちの世界は極度に二分化された世界だ。仲間と、「その他」の「モノ化」されたどうでもいい人びととの。

 彼女たちが意識するのは、閉鎖された「仲間」たちの目線。その小さな温室のなかで、彼女たちは美しく咲き誇る。しかし、そうした温室に閉じこもることによって、結果として彼女たちは世界において「自分自身をゴミ化」することとなる。

 しかし、こうした問題を取り上げる際にひとつ避けてはならない論点がある。それは、世界の人びとを「人」としてみず、「モノ化」してしまっているのは彼女たちだけではないという事実である。見られるものがいるということは、見るものがいるということについて、少し考えてみたい。

 この醜悪な光景が展開している場所について考えて欲しい。ここは電車の社内という公の空間なのだ。そうした場所で彼女たちが自分自身を「ゴミ化」しているのを、完全に放置して冷笑するだけの人びとがいるのを忘れてはならない。

 いってみれば、彼女たちの世界からの「孤立」は、彼女たちだけのせいではない。世界のほうもまた、彼女たちを見放している。このことを忘れてはならない。こういった人びとを醜いと冷笑するわれわれの意識のどこかには、彼女たちを同じ「人」として見ることを拒絶するある種の冷酷さが潜んでいる。つまり、心のどこかでわれわれは、彼女たちを道端の犬のフンのような「モノ」として見ようとし、そして切り捨てようとしているのではないだろうか。

 彼女たちが自分たちの世界に閉じこもろうとするベクトルと並行して、彼女たちを世界から切り捨て、排除しようとするベクトルが働いていることをわれわれは忘れてはならない。

 自らを「ゴミ化」してしまっているのは、別段、こういったいわゆる「女子コーセー」だけではない。同種の醜さは、日常的にあらゆるところで眼にするものだ。「恥」の感覚は、対等な人間どうしにおいて初めて成り立つもの。どちらかが他方を「モノ化」するような関係においては、「恥」や共通の「美醜」といったものは存在し得ない。

 人びとが世界から「孤立」し、閉じた仲間うちの空間に閉じこもろうとする限り、こういった光景が今後なくなることはないだろう。また、世界がすべての人びとを暖かく迎え入れようとしない限り、「モノ化」され、排除された人びとの自己「ゴミ化」はなくならないだろう。

 だから、下記のような見方はわからなくもないが、同時にその無力さに対して悲しみをおぼえる。

 女子高生を怒る前に戦後六〇年の日本に何があったのだと……、このような光景に収斂する社会、家族、教育、とは一体何だったのかと、考えざるを得ない。この子たちが将来子を産み、そして育てるのだ。

日本をあきらめない(2)より引用


 「社会、家族、教育」などという大きくて空虚な論点を持ち出す事によっては何も解決しないのだ。そんなインテリの大風呂敷が導いてくれるのは、良心的な気休めの悲嘆か、悪意に満ちた冷笑と軽蔑でしかない。問われるべきは、自分自身のまなざしの質なのだ。ゆえに、自分は理不尽を承知で、あえて論者に問う。「あなたはカメラを向ける以上の働きかけを彼女たちにしましたか?」と。

 もちろん、自分にそんなことはできないだろう。しかし、すべきであるとは思う。だから、せめて彼女たちを単に「醜い」というだけで短絡的に切り捨てることだけは避けたい。可能ならば、彼女たちの醜さの背後にあるゾッとするような「孤立」と、それを生み出しているわれわれ自身の業から眼をそらさないでいたい。

 なるほど、彼女たちは醜い。しかし、彼女たちひとりひとりをそのありのままの姿でわれわれが正面から受け止め、世界の中に抱きとめてあげないかぎり、彼女たちが救われることはあり得ない。彼女たちがありのままの姿で世界の中に受け入れられない限り、彼女たちが広い世界を相手に自分を見せようとすることはあり得ない。

 美の根幹にあるのは礼節。礼節の根幹にあるのは思いやり。思いやりの根幹にあるのは世界への帰属感。世界への帰属感の根幹にあるのは愛。そして、愛の根幹にあるのは、“Amo: Volo ut sis”(I love you, I will that you be.)(わたしはあなたを愛している。だからあなたがあなた自身として存在することを望む)という祈りではないだろうか。

 だから、結局のところわれわれは、こういった現象を「社会、家族、教育」の責任にしてはならない。むしろ、彼女たちのような人びとを絶えず排除しようとするわれわれのまなざしの質を問うべきではないだろうか。嘆くだけでは何も始まらないのだ。
スポンサーサイト

コメント

君に問題を投げかけて良かった!

寝太郎さま
すばらしい記事に展開してくださり感激しております。

この電車がどこを走っているのか知らないのですが
昭和25~30年代の「千葉のおばさん」と呼ばれていた担ぎ屋さん達の逞しい姿がふと思い出されました。
都内の電車を占領し大声で笑う彼女たちの徒党を組んで運ぶ野菜で生きていた都会人だったのも事実です。

どこでも座り込む姿は逞しかったけど醜くは無かった・・・

生命力の迸りがありました。

この女学生が醜くくみえるのは生命体としての覇気が感じられないからでしょう。
どんな眼差しを彼女達に注げばよいのか、考えてしまいます。

なるほど~。

記事を読ませていただき、また大きく頷かせていただきました。
「問われるべきは、自分自身のまなざしの質なのだ。ゆえに、自分は理不尽を承知で、あえて論者に問う。『あなたはカメラを向ける以上の働きかけを彼女たちにしましたか?』と。 」

おっしゃるとおりですね。
社会が、人間が、○○が悪いから・・・という、一般化した主語を用いての議論はどうも現実味がありません。一番大切なのは、「あなたの目線で見たとき、あなたはどうしようと思いますか?」ってことなんでしょうね。
議論を一般化したり全体化したりするのって、自分自身はきっと痛くもかゆくもないから、つい犯してしまいがちな過ちなんでしょうけれど。

私も地元では高校のときから7年ほど電車通学をしていました。
「それはないでしょう・・・。」と、目を疑いたくなる光景もしばしばありました。

もう結構前のことなので何に対してだったかは忘れましたが、ある日、どうしてもそのままにしておけないなと思うことがあり、ある女の子に「そのことはあんまりよくないと思うから、やめた方がいいよ。」と伝えた記憶があります。

その子はいきなり話しかけてきた私にびっくりしていたというのしか覚えていませんが、私もその子に声を掛けるまでは、「どうしようかな。なんて声を掛けたらいいかな。」と電車に揺られながら考えていました。

私からすれば、「私は何も知らないよ~」みたいな顔をしている大人の通勤者の方々が、その時不思議に見えてならなかった印象があります。

目の前にあるのは、他の誰かの問題じゃなくて、「わたし」の問題。

寝太郎さんの鋭い視点、今日も参考になりました。
ありがとうございました。
(^▽^)

早速、勝手ながら記事を参考にさせて頂きました。
トラックバックもさせて頂きました。
ありがとうございます。
m(_ _)m

何か差支えがあれば、お教えください☆

とんでもないです

>Patraさん

 貴重な情報、本当にありがとうございました。前から書きたかった内容だったので、いいきっかけでした。

 うん、生命体としての覇気がないっていうのはわかる話です。泥臭い生活感というか、そういう生命力がない単なるだらしなさって言うんでしょうか。

 僕は現代しか知らないので、こういうものは当たり前の情景かと思っていましたが、やはりそういうことはないのですね。あらためて、いろいろ考えてしまいます。

>sayakaさん


>議論を一般化したり全体化したりするのって、自分自身はきっと痛くもかゆくもないから、つい犯してしまいがちな過ち

 そう!!それが言いたかったんです。自分自身は痛くも痒くもないけど、なにかたいそうな事を言った気になる。言ってみれば、自己満足ですよね。そういうのって、もちろん陳腐なんだけれど、それ以上にとても残酷で無責任だと僕は感じてしまいます。

 それにしても、sayakaさんは勇気があるんですね。僕なんか、こんなえらそうなことを言っている割には、ほとんどそういう注意はしたことないんです。なんだか、圧倒されちゃうんですよね。唖然とするというか。ああいう光景って。

こんばんは。

朝、この記事を読んでから何かがモヤモヤしています。まだ言語化できないのでひとつだけ。
女子高生たちは人目を全く意識していない訳ではないのでは? ほんとうは誰かに見てほしい、関心をもってもらいたいと思っているのでは?
「彼女たちひとりひとりをそのありのままの姿で」受けとめる大人が、彼女たちのそばに一人でもいたなら・・・と書くのも、「良心的気休め」であり「一般化」なのかもしれませんが。
でも「オバタリアン」でも、「片付けられない女たち」でも、この「自身をゴミ化する女子高生」でも、槍玉に挙げられるのは女性というのが、なんだかなぁ・・・。

はじめまして!

寝太郎さん、はじめまして。
awayと申します。
あつこさんのところからやって参りました。
このサブジェクトについてはあつこさんのところにコメント
させて頂きました。

| 可能ならば、彼女たちの醜さの背後にあるゾッとするような
| 「孤立」と、それを生み出しているわれわれ自身の業から
| 眼をそらさないでいたい。

おっしゃることに同意いたします。
この「孤立」、彼女たちだけのことではありませんよね。
自分に直接関係ない人達のことを「関係ない」と目をつぶる
ことに僕たちは馴れてきているのだと思います

ある本に「欲望が解放されつつある今、真面目な人を中心に
まだ自分の欲望を抑制することが正しい、と思っている人達
がいて、そういう人達は他者の気ままな欲望充足を見て腹を
立てる。それぞれが抱えている欲望の充足に対してお互い邪魔
をしない、ということが社会の暗黙のルールになるまでの今は
過渡期だ」と書いているものがありました。
その理屈で行けば、我々はまだまだもっと馴れないといけない、
ということでしょうか。

しかしそうやってお互いの「聖なる欲望充足」を一番素晴らしい
ものとして、その代償として内輪以外の行動は見て見ぬ振りをする
世界は、少なくとも僕が住みたい世界ではありません。
そんな世界は、すごく寂しい世界だと思うから。

# 差し支えなければこちらをリンクさせて頂きたいと思います。
  よろしくお願いします。

他人の気持ちになって考える

>あつこさん

 そうかもしれませんね。人目をまったく意識していないというのは、ないのかもしれません。むしろ、過剰に意識したうえで、それを拒絶しているのかもしれませんね。…そこまでの自己主張があってのあのスタイルかどうかは、正直疑問です。だけど、何らかのアピールは潜在的にあるのかもしれません。僕にはわかりませんが。

>でも「オバタリアン」でも、「片付けられない女たち」でも、この「自身をゴミ化する女子高生」でも、槍玉に挙げられるのは女性というのが、なんだかなぁ・・・。

 男というものは、とかく女性全般に対して無責任でくだらない幻想を抱きがちなのだと思います。人間なんて、基本的にいい加減でだらしない生物で、それは性別を問わないものなんだと僕なんかは思うんですけどね。(笑)

awayさん、はじめまして

>awayさん

 はじめまして、こんにちは。

 とても大きく、また重要な問題提起をありがとうございます。たぶん、awayあんの論点は、突き詰めていくと思想史的には価値相対主義の問題につながるのだと思います。


>お互いの「聖なる欲望充足」を一番素晴らしい
ものとして、その代償として内輪以外の行動は見て見ぬ振りをする
世界は、少なくとも僕が住みたい世界ではありません。
そんな世界は、すごく寂しい世界だと思うから。

 本当におっしゃるとおりですね。互いの多様性を認め尊重し合うということは大変聞こえがいいです。しかし、往々にしてそれは単なる相手に対する無関心―あるいは僕が本文で使ったことばで言うならば「モノ化」―へとつながってしまうことは忘れてはならない事だと思います。まさしく、愛の反対語は憎しみではなく、無関心であるといったところでしょうか。

 しかし、相手を変えることで救済しようとすると、それは究極的には原理主義のメンタリティへと限りなく近づきます。誰もが共有できる絶対にこれが正しいというあり方が失われてしまった現代という時代は、まさしくパラドックスそのものがリアリティとなった時代なのかもしれません。

 では、放任と無関心、あるいは原理主義的ユートピア主義の二者択一しかわれわれには残されていないのでしょうか。論理的にはその通りでしょう。

 しかし、僕は突破口は必ずあると思っています。そして、そのキーワードは「世界への愛」―多様で、予測不能で、理不尽で、醜いわれわれの世界を、そのあるがままに受け止め、愛すること―だと感じています。

 世界を愛する人間は、醜いからといってそれを壊そうとは思いません。ユダヤ人が目障りだから、消し去ってしまおうとか、過去の歴史が目障りだから恣意的に書き換えてしまおうだとか思う連中は、ようするに世界を愛していないんだと僕は思っています。

 世界に溢れる醜さを憂うなら、それを消し去ることを考えてはならない。そうではなくて、より美しいものをつくりだして、世界をそれで飾り立てればよい。

 女子高生が醜いということを憂うのは誰だってできます。問題は、その現実をどのように受け止め、より美しいものをつくりだすためのきっかけとするかどうかではないでしょうか。

 女子高生を裁くのは誰だってできます。でも、裁くことで女子高生が変わる事はあり得ません。彼女たちの現実を現実として受け止め、対等な人間としてかかわっていくこと。そうしたなかで、お互いが学び、よい方向へと変わっていく。

 根本的な変革というものが可能であるとするならば、それは、こうした「愛」の関係性のなかでのみ可能ではないかと僕は思っています。

 コメントありがとうございました。リンクはどうぞご自由にされてください。そんな嬉しいこと、僕にことわる必要ないです。もう、大歓迎!!ありがとうございます。

リンク許可ありがとうございます。

寝太郎さん、リンク作業完了しました。
快諾いただきありがとうございました。

| 突き詰めていくと思想史的には価値相対主義の問題に
| つながるのだと思います。

ええ、まさにおっしゃる通りで「善とは主観的で相対的な
ものなのか?」という問題ですね。
そこを考えてゆくと自由主義の根本的な問題に突きあたる
ことになると思います。

| 根本的な変革というものが可能であるとするならば、それは、
| こうした「愛」の関係性のなかでのみ可能ではないかと僕は
| 思っています

僕のブログの昔のエントリで「個人とは、決して真空を無秩序
に飛び回る原子ではない。」と書きました。世界とは、社会とは、
人と人のつながり(関係性)そのものであると思っています。
寝太郎さんのおっしゃることに同意いたします ^^

# お暇な時にぜひ当ブログもぜひ覗いて下さい。
  音楽の趣味などもとても近いです。興味を持って読んで頂けたら
  嬉しいです ^^

醜いと言う前に。。。

誰でもこんな時期があるでしょう?
私でも、同じ格好はしませんでしたが、世の中に対してしらけていた時期がありました。
「醜い」と決め付けてしまう前に、なぜこの子たちに幾ばくかの愛情がもてないのでしょうか。
この子たちはモノではありません。
心があり、精神があり、ちゃんと考えて感じている子たちです。
私は大人が悪いともこの子たちが悪いとも思いません。
人間の中にある自分とは違う者たちを見下してしまう罪の性質だと思っています。
あなたはかつてこんなふうではなかったのだろうかー醜いと書いた人に聞いてみたいです。

人とのつながり

>awayさん

 おっしゃっること、よ~くわかります。ブログはお邪魔しました。

 これからもよろしくお願いします。

 

でもね、はんなさん

>はんなさん

 いろいろ考えてみました。

 はんなさんのおっしゃることはよくわかります。僕自身も、引用先の藤原某氏の見解には同様の違和感を感じたことは事実です。

 しかし、やはり僕はああいう光景は「醜い」と思う。

 彼女たちは「モノ」ではないと知りつつ、気づけば彼女たちを道端に転がる犬のフンのような「モノ」としてみてしまっている自分がいます。

 理由は簡単です。僕は彼女たちのひとりひとりと人格的なかかわりを持っていない。だから抽象的な「女子コーセー」というレッテルでひとくくりにしている。こういった、恣意的な単純化を行っているから、彼女たちに対して人間関係を確立することができないのです。

 つまり、僕が言いたいのはこういうことです。もしかしたら僕は彼女たちひとりひとりを個別に愛する事は可能かもしれないし、そうすべきです。けれど、いかなる形においても彼女たちを「電車のなかで醜態をさらしている女子コーセー」の集団として肯定することはできない。そういうことです。


 それはよいことだとは思いません。しかし、残念ながらそれがいまの自分にとっての事実です。

 はんなさんは

「私は大人が悪いともこの子たちが悪いとも思いません。」

 とおっしゃいました。それはそのとおりかもしれません。けれど、同時にそれはすべての責任を曖昧にする考え方でもあります。

 はんなさんは誰でもこういう時期があるから、彼女たちには責任がないということをはんなさんがおっしゃりたいのでしょうか?もしそうであるならば、僕はその考えには同意できません。彼女たちの心情や境遇に同情することと、彼女たちの公衆の面前でのあり方を免責することとはまったく別問題だと僕は思っています。それは、あくまで情状酌量の余地があるということであって、彼女たちの責任がなくなるということではあり得ません。

 「あなたはかつてこんなふうではなかったのだろうか」という問いに対しては、はい、そうでしたしいまもある意味ではそうですとお答えしたい。僕自身、かつては社会の「空気」に対する違和感と反発からたくさんの奇行を犯しました。いまだって、企業社会に受け入れてもらえない自分、認めてもらえない自分に対して焦りを感じるとともに、そうした社会を呪い、粉々にぶち壊してやりたいというネガティブな気持ちをどこかに抱えていることを否定しようとは思いません。そういう意味では、僕は写真の彼女たちと潜在的には同類です。

 だけど、僕は僕自身が社会から受け入れられず、また社会の目線が僕を評価してくれないことを他人のせいにしようとは思いません。第一に悪いのは紛れもなく自分です。自分が自分自身として生きるということは、自分自身として見られ、量られる責任を伴うということではないかと僕は考えています。

 僕は思うのですが、愛するということは、無条件に免責するということではないのではないでしょうか。赦すという行為は、免責とはイコールでないはずです。「あなたたちの中で、一度も罪を犯したことの無い者が、最初にこの女に石を投げなさい」というイエスのことばは、決して罪をなかったことにしているのではないと僕は思います。

 僕は本文で「彼女たちをありのままで受け止め」なくてはならないという趣旨のことを書きました。ありのままで受け止めるということは、彼女たちを全面的に肯定するということではありません。まず前提として彼女たちの責任、その行為の醜さを問いつつ、同時に彼女たちを裁き、排除しているわれわれの目線を問わなくてはならない。それらをすべて事実として受け止めた上で、赦し、愛する道を模索しなくてはならない。言い換えれば、裁く側としての自分と裁かれる側としての彼女たち、双方の罪を自覚したうえで、その果てしない断絶を埋めるような和解の道、ともに歩み世界を分け合うことのできる道を探していかなくてはならないということを申し上げているのです。

 だから、もし僕のはんなさんの意見に対する受け止め方が間違っていないとしたら、少しこういう現象について、僕とはんなさんの見方は違うのかもしれません。この問題は、少し継続的に考えてみたいと思っています。ぜひ、コメントしていただけたら嬉しく思います。

寝太郎さん、レスありがとうございました。
今かなり忙しいので、仕事が一段落したら(来週くらい)ゆっくり返事を書きますね。

大変な展開ですね。

議論は下手なので上手には言えませんが自由ということの履き違えじゃないでしょうか?
カメラマンの藤原さんも私も同世代ですからハッキリ言えることは我々少女、少年時代でもまず絶対に有り得ない公共の場での身の置方です。

>つまり、僕が言いたいのはこういうことです。
>もしかしたら僕は彼女たちひとりひとりを個別に愛する事は可能かもしれないし、そうすべきです。
>けれど、いかなる形においても彼女たちを
>「電車のなかで醜態をさらしている女子コーセー」の集団として肯定することはできない。
>そういうことです。

そう仰る寝太郎さんの感覚を信じます。

>何故いつも女性が槍玉なのか?
の何方かの質問には女性こそが人類を産み育てる資格がある命を授かっているからこそ最も大切な根源のような部分の礼節をなくしてはいけない・・・そう言うことだと思うのではダメかしら?
お母さんが悪だとお父さんが悪よりももっと人類の、世界の地球の損失だと思うのです。藤原さんの文章を読むと世界中でこんなに若さを粗末にしている女性達はまず見ない現象だよ・・・と問題提起しています。其の事こそ大切なんだ・・・とカメラを向けたんじゃないでしょうか?日本を諦めない!というタイトルですから。

前後を正しく読んでいただきたかったですが・・・

>はんなさん

 あぁ、ブログのほうで書かれていた翻訳云々ですか?がんばってくださいね!

なるほど

>patraさん

 なるほど、「母性」という問題も入ってくるのですね。確かに、そう言われてみると、また違った考え方のできる問題でもあります。

「女性こそが人類を産み育てる資格がある命を授かっているからこそ最も大切な根源のような部分の礼節をなくしてはいけない」

 というpatraさんのご意見が正しいかどうかは正直わかりません。わかりませんが、でも、「うん、そうかもしれない」と納得できるものがあります。なるほど、「母性」というフィルターを通してあの写真を見てみると、女性がそういったあり方から最も遠く離れていってしまっているのがああいう情景なのかもしれないと思ってしまいました。

 ただ、これもある種のジェンダー・バイアスなのかもしれませんが…。女性の方はどう思うんだろう?

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://slumber365.blog2.fc2.com/tb.php/151-d9c97c69

自分の目線で

どこか高いところから見下ろすでもなく、背伸びをして見上げるでもなく。そのありのままの視線を恥じることなく、ありのまま物事を見て、気付いたり考えたりして、動いていきた
  • [2005/09/22 17:47]
  • URL |
  • 大空の下で ~my diary~ |
  • TOP ▲

見つめることから

事実は「目に見える」が、本質は「目に見えない」。by 野中 郁次郎昨朝「うたたねの記」の「まなざしと美醜~『醜い』女子高生に思う」という記事を読んでから、あれこれ考えている。考えはまとまらないが、まとまるのを待っていたら書かないまま終...
  • [2005/09/24 12:41]
  • URL |
  • わたしの雑記帳 |
  • TOP ▲

-

管理人の承認後に表示されます

-

管理人の承認後に表示されます

-

管理人の承認後に表示されます

-

管理人の承認後に表示されます

-

管理人の承認後に表示されます

-

管理人の承認後に表示されます

-

管理人の承認後に表示されます

-

管理人の承認後に表示されます

-

管理人の承認後に表示されます

-

管理人の承認後に表示されます
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。