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考えるということ 

 現実に即さない思考は、造花のようなものだ。一見それは本物と似たような花を咲かせている。しかし所詮はつくりもの。そこに命はない。なぜなら、花の命は、目に見えない根っこの部分にあるから。

 思想家は目の前の現実と格闘し、思考する。「思想」や「哲学」、あるいは「理論」と呼ばれているような書かれた「ことば」は、その結果に過ぎない。つまり、彼らは現実から出発して「思想」にいたる。

 一方、似非学者は他人の「思想」を自分の都合のいいように切り貼りし、自己完結したたわごとを作り出す。そしてたわごとを現実に当てはめて、世界を説明しようとする。つまり、彼らの場合、他人の「思想」から出発して現実にいたる。だから、破綻する。

 なぜか?きわめて単純なことだ。思想家が格闘した「現実」が、似非学者の前には存在しないからだ。それをわきまえないで、たとえばカントの『永久平和論』をそのままもってきて、現在の国際社会に当てはめようとする。あるいは、現在の国際社会を前提に、カントの平和論を非現実的うんぬんと批判する。対極にあるようで、実はこのふたつの考え方は、きわめて似ている。どちらの立場においても、カント自身が格闘した「現実」(19世紀ヨーロッパの時事問題、文化的潮流、歴史的文脈など)にたつ目線が欠落しているのだ。だから、両者ともにリアリティがない。「思想」が「現実」に即していないから。

 マルクスは晩年、彼の熱狂的な信奉者について聞いたとき、はき捨てるようにこうつぶやいたと言う。

 「少なくとも、わたしはマルクス主義者ではない。」
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