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「いま」書くということ~この政治的なるもの~ 

 身の程を知るという文章を読んで、思うところがあった。前から考えていたことなので、この際、書いてしまおうと思う。

 結論から言うと、いまという時代において、個人が公の場で「書く」というほど政治的な行為はないと僕は思っている。

 Viva Democracy!!という記事で、「ことば」による政治を、われわれの間に取り戻さなければならないということを強調した。

 本来、政治とはわれわれの共通の問題を協力して解決する営み。だから、必然的に「ことば」に関わるものであり、そして、誰もが当然のように参加する性質のもの。それくらい、人間にとって「当たり前」の営み。だから、アリストテレスは人間をこう定義した。「政治的動物」(zôon politikon)と。

 けれど、いま政治は遠い。果てしなく遠い。政治について語ろうとすると、非現実的な壮大な駄法螺になってしまう。学部のおこちゃまが「北朝鮮に制裁を」だとか、「構造改革」だとかについて熱く語っているのをみると、愕然とする。彼の存在の、あまりにものリアリティのなさに。そして、同様の表情を一部の政治家たちに見出し、ゾッとする。

 そういう連中を見るにつけ、あらためて思う。たとえば、「改憲」だとか「郵政」だとか、ぶっちゃけ関係ねぇもん。そんな、壮大な話。こちとら、チンケな、求職中の小市民でごぜぇますから。

 こっちが気になるのは、自分のしあわせ。自分の大切な人たちのしあわせ。そして、自分ひとりがぬくぬくと裕福な親の金でいい生活をさせていただいてるのが寝覚めが悪いから、ぜんぜん関係のない人たちもしあわせが気にかかる。あくまで、自分勝手な動機から、自分勝手な目線で世の中を観、そして考える。それが僕の政治観

 だから、自分がどういう生き方をしたいのか、どういう社会に住みたいのか、そこを出発点に考える。「郵政民営化」だとか、「憲法改正」だとかそういう大きな話に行き着くのは、あくまで結果に過ぎない。

 そういう目線で世の中を観ているうちに、「これはおかしいんじゃない?」というようなものに出会う。「こういうことをされると、自分が困る」と思うような動きに出会う。そういうときに、書く。一歩立ち止まって、考えるために。そして、世界に一歩立ち止まって考えるように訴えるために。

 新聞やテレビに書いてあるような、難しいことを言わなくてもいい。世界平和について語る必要もないし、改革や革命について語らなくてもいい。そういう自分の身の丈に合わない壮大な話をしようとすると、陳腐な決まり文句の羅列になってしまう

 大切なのは、自分の目線でものを観ること。そして、自分が見えているものについて考え、そして人類へ向けて書くこと

 世界が豊かなのは、たくさんの人びとが生きているから。60億の命がもたらしてくれるのは、60億の見え方。自分に見えているものは自分にしか見えていない。だから、そこにオリジナリティがあり、無限の価値がある。

 だから、自分に見えているものについて公の場で書くということほど政治的なものはない。それは、「ことば」として世界に自分を刻み込む行為だから。刻み込まれた「ことば」は自らの命をもち、自らの口で語り始める。開かれた世界に向けて、出会うひとりひとりの心へ向けて、「ちょっと考えてみない?」と語り続ける。

 洪水のように「拉致」がくる、「郵政」がくる、「改憲」がくる。さらにそれをメディアが煽る。そしてわれわれはその激流に飲み込まれ、流される。

 でも、世界に刻み込まれた「ことば」は、そんなときのわれわれの避難所となりうる。砦となりうる。いや、そもそも、洪水を起こさないための堤防となりうる。だから、いま「書く」ということほど政治的なものはないと僕は思う。

 私が書いて伝えられることなど、たかが知れている。ほんとうに実感して、納得して、人に伝えられることは、きちんと私というフィルターを通したことであって、聞きかじりの社会ニュースではないはずなのに、ハメをはずしてしまった。
反省しなければ……と思う。
そして、明日から、しっかりとありのままに、自分の目に見える世界について書いていこうと思う。

身の程を知るより


 その通りだと思う。しかし、同時に感じるのだ。こういう姿勢で書き続ける限り、それは究極的な意味での政治活動となるだろうと。それは種を蒔き、石を積み上げる行為なのだ。世界に、そして人びとの心に。それが、「ことば」による政治。

 それらの種が芽を吹き、力強い若木に育つとき、吹き荒れる暴風のなかでわれわれはそれにつかまることができる。それらの石が強固な堤防となるとき、濁流が押し寄せたときにそれはわれわれを護ってくれる。

 台風は来る。洪水は起こる。それらに備えて、避けどころを用意すること。それが、「ことば」による政治の本来のあり方であり、究極の目標なのではないかと僕は思う。
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コメント

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こんにちは!オジャマします☆
何だか、共感する文章が本当にいっぱいありました。
「いま政治は遠い。果てしなく遠い。」私もそう感じています。
政治を、自分(たち)のものとして取り戻していけたらいいな・・・。
「大切なのは、自分の目線でものを観ること。そして、自分が見えているものについて考え、そして人類へ向けて書くこと。 」
そうだ、本当にそうだなぁ。私も、これからそのスタンスを忘れないようにしていきたいです。
「書く」ということは、政治的なものなんだ。私もその一翼を担えるように、頑張ってみたいなと思います。
これからも、記事楽しみにしています (^▽^)♪
PS:寝太郎さんのブログのリンクを貼らせていただいたのですが、
構いませんでしょうか?もし差支えがあれば、お教えくださいませ☆

>とよさん

 アハハ、お気遣いどうも!!

 ともあれ、自分のレビューを読んで、実際にその本を読んでいただけるなんて、本当に嬉しいです。ましてや、お礼をいただけるなんて。

 その該当記事のほうにコメントしていただいても、ちゃんと僕は把握できるようにしてますから大丈夫ですよ。

 コメントありがとうございました!!

>sayakaさん

 なんだか、共感していただいたようでとても嬉しいです。ともあれ、こうやってお互いブログというメディアを持っているということは、いいことです。少なくとも、われわれは世界に訴えかける手段がある。つまり、政治的にゼロではないのだから。

 リンクですか?ありがとうございます!!僕のところは完全にリンク・フリーということでやっています。なので、もしリンクしてくださるのであれば、とても嬉しいです。

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ブログをはじめてから一週間が経とうとしている。つたない文章で、青臭い物言いしかできないブログであっても、有名サイトに勝手にTBさせてもらったりすれば、ありがたいことに一日に1
  • [2005/09/24 01:15]
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  • 日和見主義 |
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「サヨク」、あるいは「ウヨク」という言葉

 私が大嫌いな文章の使い方、あるいは言葉遣いの一つに「サヨク」、あるいは「ウヨク」がある。言うまでもなく、「左翼」、「右翼」をカタカナに開いたものであるが、きっかけは作家の島田雅彦がまだ学生時代の1983年、「優しいサヨクのための嬉遊曲」で用いてからだと思う
  • [2005/12/16 02:06]
  • URL |
  • 随想 吉祥寺の森から |
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