スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

心について最近思うこと 

 高校時代、一時期やたらと心理学(主にC・G・ユングのもの)にハマッた時期があった。

 深層心理だとか無意識。理性や感情とはまったく異質の原理が心の奥底に存在し、絶えず強く人を揺り動かしているという考えに強く惹かれた。人は罪と知りつつ罪を犯す。ここに人の本来的な業を見、また現在を見たのは聖パウロであり、聖アウグスティヌスであったが、結局のところ、人の本来的な自己に関する叡智は古の賢人たちの省察に再び回帰していくのだろうか。人の心には、確かに自分の意思や努力では制御できない力と意識が確かに存在する。

 極めて単純な話だが、誰しも愚かな人間になろうとして愚かな生き方をするのではない。また、悪しき人間になろうとして悪を担うのでもない。放埓な人間になろうと意図して放埓な生活をおくるのでもなく、自堕落な生き方がしたくて自堕落な生活をおくるのでもない。人間の生における理想と現実の落差の問題は、そうそう本人の努力の問題として片付けられるような安直なものではない。人の心は、それほどわかりやすくできているわけではないのだ。

 無意識というものが何なのか、衝動やヴィジョン、直感や夢はどこから来るのか、実は何もわかっていないらしい。ただ、現象として自己を観察していると、そこには複数の意思が存在するように思える。自己とは単一の意識ではなく、自我を核にさまざまの別個の意思が星雲のように渦巻き、混在し、干渉し合う総体なのではないかと僕は思う。ビリー・ミリガンは他人事ではない。まったく科学的な裏づけのないことであるが、ああいったことは、自我、自己の核となるような中心的思惟の求心力が極度に弱まったことによって、その他の意思が生きるために顕在化し、また相対的に力を強めることによって起こるのではないかと僕は感じている。少なくとも、人間の自己というものは多くの人が思いたがっているほど首尾一貫したものでもなければ、たやすくセルフ・コントロールできるものでもない。

 そもそも、僕は最近、意識と無意識という形で綺麗に分けられるものなのかどうかにも疑問を感じている。意識と無意識の相互作用に人の精神活動を見るのは正しい考え方だとは思うが、しかし同時に現実はもっと混沌としていて、ゴチャゴチャしているのではないだろうか。東洋の宗教(および西洋におけるカバラや錬金術、魔術の系譜が)における瞑想の技法が、軒並み呼吸法に重点を置いているのは非常に面白い現象だと思う。呼吸という行為は生命維持のための最も根源的な営みだが、それは随意行動であると同時に不随意行動でもある。呼吸こそが、最も日常的な形で意識されるものと意識されざるものが相互に干渉し、また補完し合う現場なのだと言えよう。古代ギリシア語で霊を意味する「プネウマ」ということばは、同時に呼吸を意味するが、まさしく生命の根本にはこの呼吸に見られる意識と無意識の混在する構造が見られるのではないだろうか。

 しかし、改めていわゆる「無意識」と呼ばれている領域に属するとされている諸々の意思や思惟がどこから来るのか、これについては何もわかっていない。僕が最近感じるのは、自己をひとつの完結した個体としてみなす発想が、そもそも誤っているのではないかということだ。さきほど、人間における自己の構造を、ひとつの中核となる意思を中心に様々な別個の思惟が混在しつつ取り巻く星雲に例えたが、人というものはその「中核」に適合する空気中の様々な思惟や想念を引き付け、取り込むことによって自己を形成していくものではないかと感じている。怒りや怨念が中核にある者は、それに応じた諸々の力を引き寄せ、それによって力を得、命を失うだろうし、また、真の意味での祈りと善意に生きる者はそれに応じた諸々の力の加護と導き、そして命を得るだろう。そんなことを、最近思う。

 とまぁ、めちゃくちゃなことを書きなぐってみた。自覚して書いていることなので、非科学的だとかそういう突っ込みはご遠慮いただきたい。
スポンサーサイト
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。