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評価すべき「努力」とは 

 仏教の「因果応報」という考えは福音だと思う。結果には必ず原因があり、善因は必ず善果をもたらし悪因は必ず悪果をもたらす。

 つまり、人間は自分の人生の主であり創造主となり得る。

 この世界をどのようにも生きていけるし、変えても行ける。

 そういう救いが「因果応報」という言葉にはある。

 これは裏返すと、今の自分の満たされない状況も、すべて自分に原因があると言う事。

 更に言えば、自分が望んで今の境遇にたどりついたという事。

 これが救いでなくて何であろうか。

 さて、ビジネスは結果だと言う。

 営業は数字だと言う。

 昔、あるオリンピックメダリストの講演を聴いたとき、「私は試合で勝つ為の練習方法を考え、実践し、そして勝った。だから勝つのは当然。」と言うような事を言った。発言をしていた。

 その言葉が非常に印象に残った。

 求める結果があるならば、それを達成する為の方法を考え、実践せよ。

 ただの漠然としたルーティンワークを努力とは呼びたくない。

 企業において売上と顧客満足に直結しない営みは、極言すればすべて無駄。だからやるべきではないし他人に奨励すべきでもない。

 更に組織の話を続けるならば、いい組織とそうでないものを区分する最大のポイントは、いかにその組織が達成すべき「価値」が明確に定義・共有されており、それらを実現する為のプロセスにおいてその実現と因果関係が存在しない行為がどれだけ排除されているかだと思う。

 まずは求める結果を把握し、そこから逆算して必要な行動を割り出し、そして実践する。

 その過程にある営みを自分は「努力」と呼ぶし、それ以外のいかなる営みもそれに値するとは思えない。

 だから、「因果応報」なんだ。

 だから、結果を本気で出したいと思っているのならば、結果が出ないと言う事はあり得ない。

 世界は意外と優しく出来てる。

 だから、「努力」しよう? ね?
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宇宙の壁を壊す時 

 なんとなく金子みすずについて考えていて、ツイッタ―にこんなことをつぶやいた。 

 「金子みすずは何故自殺したのだろう。ひとつ思うのは、詩人の生涯にはは自分が構築した自分の宇宙を内側から破壊し、新たな世界へ旅立たなければならない瞬間が訪れるということ。それが出来ない場合、その宇宙の壁は自らの内側へ向けて倒れ、その中心にいる詩人を押しつぶす。」http://twitter.com/slumber365/status/9145048286

 詩人とは、宗教なき信仰者だと僕は思う。

 彼は自らその存在の深淵と向き合い、また自らを宇宙の中心に据え、自分の視点からの完全にオリジナルな宇宙観を構築し、その中で主人公として生きる。そんな中で、そうした宇宙の描写を言葉で語る術や素質を与えられた者が、詩人として認知されるのだろう。

 ここでポイントとなるのは、その宇宙は一人で生成され、一人で成立し、一人で構成されるということ。いや、厳密に言うと、自分と存在の起源との一対一の関係から構築されると言った方が正しいだろうか。

 どちらにせよ、重要な事は、この宇宙構築の作業において他者が果たす役割は無い。

 こうした一人で独自の宇宙を構築し、その中心に住まう者を仮に「原初の詩人」と呼称する。彼は自らの存在の始原と対話を続け、宇宙を着実に創造・構築していく。そして、それが完成される時、時が訪れる。

 崩壊の時が、そして旅立ちの時が。

 すべては変わっていく。

 普遍的な真理があるとするならば、それはまさにこの事だろう。

 そして、完成された宇宙は崩壊を運命づけられている。

 それは「変化」を含まないという意味で、普遍性を持たないから。

 だから、詩人は遅かれ早かれ、自らの宇宙の壁を壊して新たな未開の地へ旅立つか、他者を招いて二人で宇宙を構築しなおさなければならない。

 言い換えるならば、詩人が詩人であり続ける為には、変わらなければいけない。自らが変わる事を受け入れなければならない。まったく新しい環境に飛び込むか、パートナーと人生を、いや宇宙とその創造の営みを共有しなければならない。

 どちらにせよ、完成した宇宙の壁を壊し、新たな場所で新たな宇宙を創造し直さなければならないのだ。

 それが出来なければ、完成した宇宙の壁は、内側に向けて崩落し、その創造主を押しつぶす。

 金子みすずが、東京に打って出る機会がありながらも生涯を地元で過ごし続けた事や、破綻した結婚生活、娘を置いて一人自殺した事などを思いながら、ふとそんな事を思った。そして、またなんの脈絡もなしに尾崎豊の事を思い出した。彼もまた、そうでなかったかとふと思った。

私の人物鑑定法 

 なんとなく、日ごろ他人を見る上で気を付けていることを、思いつくままにメモ。
 
 人を見る目って、もしかしたら生きていく上で一番大事なもののひとつかもと思う今日この頃。養いたい!

 基本的に独断と偏見に基づくものなので、アハハと笑って読んでください。

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しなければならない 

 「~しなければいけない」

 いろんな「しなければならない」をひとりひとりが抱えて生きている。

 しかし、実はそれらの「しなければならない」とは、自分自身が好き勝手に決めているものであったりする。

 色々な人と話す中で、この人は重症だなぁと思うのが、「だって、それをするのが当たり前」、「社会人なんだからそれくらい出来なきゃ」と言った形で、自分で決めたマイルールがあたかも法律であるかのように自分自身を縛っている人。

 恐ろしいもので、本来「当たり前」というものは「その人にとっての当たり前」でしかないのだが、それが自覚出来ていないと、自分で自分を縛り、そしてその縛りで他人をも縛り、苦しめることになる。

 先日、隣で飲んでいた女性二人組が「付き合っているんだから、~してくれて当然」的な彼氏に対する愚痴を延々としていて、それに対して僕は「そりゃあ、アンタの常識だろ」と心の中で突っ込みながら可愛くフルーツ系のカクテルを前に一人でにんまりしていたのだが、この手の思い込みというのはやはり不幸だと思う。

 哀しいかな、人は誰もが好き勝手に生きるもので、しかも致命的な事に、基本的には変わらない。変わるにしても、それは大陸移動と同じような深層からの遅々としたプロセスによって数年単位をかけて行われるもの。

 つまり、我々は我々にとって「非常識極まりない」多数派に誰もが包囲されつつ生きる星の下に生まれており、結構な確率で身近な人間が非常識人だったりするわけである。

 だから、結局人間関係をうまくやっていくコツのひとつは、自分の「~すべき」、「常識」、「当たり前」が実は単なるマイルールであり、非常にローカルなものだとわきまえておくことなのだろう。

 正義の反対は別の正義であるという名言は、確かクレヨンしんちゃんの父親のものだったと思うが、誰もが自分が正しいと思って自分を縛り、そして他人を縛ろうとする。だからこそ、自分のそれをあまり深刻に受け止めず、また他人のそれを暖かくおかしみとして見守ってあげる思いやりがあると、いろんな意味で世界が優しくなるんじゃないかなぁと、ふと思ったので書いてみた。

よき経営者とは 

 昨日の八起会の「会社を潰す社長の10カ条」を参考に、ではよい経営者たるにはどうすべきかを出来る限り具体的に考えてみた。

1.他者の目線から考え、喜んで自分・自社と関わってもらうためにはどうすればいいか工夫せよ

自己中心的

2.成功・失敗100%自分次第と心得よ

悪いことはすべて他人のせい

3.やるべきことをリストアップし、淡々と取り組め

嫌いなこと、苦手なことを避ける

4.人との関係に向き合え。常に問題を社員に相談・共有し、必要あらば迅速に縮小を決断・実行し、謝罪すべき人に自ら謝罪せよ。

5.長期目標および課題を各部門ごとに明確化し、その改善と業績評価を一致させよ

頭で分かっていても実行しない

6.不利な依頼は即決せず、持ちかえって書面で代替案つきの書面で断れ

お人好し(頼まれたらノーとは言えない)

7.利益を生み出す社員を引きとめる唯一の方法は、金銭と待遇で謝意を示す以外の方法はないことと知れ

還元の心なし

8.自らに原因のない失敗はないと知れ

反省心の欠如

9.時間が足りない時は、自らの効率性を疑い、やらなくてよいことのリストをつくれ

時間貧乏(働きすぎ、遊びすぎ)

10.自らの取り分を明確化せよ

公私混同(金銭感覚の欠如)

おじちゃん 

 物心ついたころ、おじちゃんは既にそこにいた。

 家から徒歩2分。個人経営の昭和なスーパー。そこのレジ打ち・管理人。

 ごま塩のひげ、少しこけた赤ら顔、曲がり始めた腰…もう80は近いはず。

 10キロは軽くありそうな大根やさつま芋の箱を、今日も出し入れしてる。僕が出勤する7時にはもう働いている。帰宅する22時にも働いている。雨の中でも。

 彼は奉公人だと祖母は言う。東京西部には、平成の今でも大地主が多い。おじちゃんはそんな封建的遺物の生き証人。ただ働きも同然で、家も地主の土地のボロ小屋。インテリ左翼が本来真っ先に駆けつけるべき人だけど、そういう人たちはここには来ない。

 「おじちゃん、おはよう!」

 「おじちゃん、こんばんは!」

 そんな挨拶を交し始めてかれこれ20年以上。でも、僕はおじちゃんの名前を知らない。おじちゃんはおじちゃん。これからもきっと、おじちゃんはおじちゃん。

 休日ぷらついていると、時折、「今日は仕事休み?」とか、「少し痩せた?」とか、「寒いね」とか声をかけてくれる。でも、歯が抜けてきたせいか、正直聞き取れないことが多い。

 最近気づいた。

 帰宅時、「おじちゃん、こんばんは!」と声をかけると、「おかえり」と言ってくれていることに。

 知る限り、おじちゃんには家族はいない。知る限り、いたこともない。子供のころ、新潟から奉公に来て以来、ずっとここ。

 どういう想いで、「おかえり」っていってくれてるのだろう。少し気になった。

 明日「ただいま」って言ってみようかな。

 そんなことを、ふと思った。

真剣であることと深刻であること 

 真剣であることと、深刻であることは違う。

 真剣な人間はリアリストであり、ゆえに楽観主義者である。しかし、深刻な人間は夢想家であり、ゆえに悲観主義者である。

 真剣さの対象は具体的な何かだが、深刻さのそれは漠然とした不安である。

 真剣さは事態を打開しようと言う意志の表れだが、深刻さは内にひきこもる自己憐憫に過ぎない。ゆえに、真剣さは解決を求め、深刻さは悲劇性を求める。

 真剣さは現実的な計算に基づく責任ある行動を伴うが、深刻さは悲壮感に満ちたヤケクソを伴う。

 真剣な人間は物事の変えられる部分に集中するが、深刻な人間は物事の変えられない部分の前で立ち往生する。

 真剣な人間が時に深いメランコリーに沈むのは、変えられない現実の大きさを、事実として認識しているからである。一方、深刻な人間は常に陰鬱な空気を漂わせているが、それはメランコリーではなく、単なる自信の欠如からくる卑屈な不機嫌に過ぎない。

 真剣な人間は、二人の時は楽しい時間を共有することに集中するが、深刻な人間は陶酔して二人で居ても実際は一人だ。

 真剣な人間はベターを志向し、深刻な人間はオール・オア・ナッシングを志向する。

 真剣な人間はすべての人間関係における揉め事は本質的にフィフティー・フィフティーであることを熟知しているが、深刻な人間は完全な自責もしくは他責のどちらかに傾く。

 …とまぁ、思いつく限りに列挙。

 ちなみに、自分は深刻になりがちな人間である。
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