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坐禅レポォト その4 

 色々迷いは尽きず、5年ぶりに、人生で最も辛かった時期にお世話になった駒込の霊樹院の坐禅会に先週参加した。その際の方丈様の言葉で印象に残ったもの。※あくまで私の記憶に基づくものなので、正確さを欠く個所があるかもしれません。

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戒めを破り、赦しを受け入れ、賭けをする 

「戒めを破り
赦しを受け入れ
賭をする」

パウロ・コエーリョ 「ヴァルキリー」
(和訳は出てないかも)

 しばらく脳裏に引っかかっていることば。そのせいだろうか、

 「まずは自分自身が赦されているという事実を受け入れなくてはならない。そうでなくて、いかにして他人に福音が説けようか」

 座禅をしていてこんなフレーズが閃いた。飛び起きてメモ。キリスト教の根幹はここなのではないかと思った。

 自分自身が、そして自分のありとあらゆる罪が神によって赦されているという事実を受け入れる。ここからすへて始まる。赦されている…それは、自分で自分を罰することを放棄するということ。裁きは神が行う。人の手にはその権限はない、たとえ自分自身に対してであっても。

 その神が自分を赦している。絶対的に肯定している。それは、自分はありとあらゆる幸せに「値する」ということでもある。すべての大地の実りと天の恵みを享受する権利を認めるということである。そして、それら限りない豊かさをもたらすあらゆる目に見えぬ導きを「信じる」ということである。それらを信じて、身をゆだねると言うことである。

 そのように自分自身への赦し=絶対的な肯定を事実として認めることが出来て、初めて他者に救いを、福音を説くことが出来る。道を示すことが出来る。そして、他者が赦されているという事実を受け入れることが出来る。

 信仰は現世に戒めをもたらすためにあるのではない。それは刑法の代わりではない。そうではなくて、一人一人に赦しを、絶対的な肯定を与えるものである。

心がけとして~あるいは因果という考え方~ 

 ある結果には必ず原因があり、ある原因は必ず結果を伴う。

 善い原因には善い結果が伴い、悪い原因には悪い結果が伴う。

 因果応報とは、こういうことなのだと思う。

 これは救済だ。

 人の意識を、かけがえのない「いま、ここ」へと向けてくれる。いまを生きることを教えてくれる福音だ。

 つまり、何かを変えたいなら、「いま、ここ」で何かを成せ。それが世界を変える。それが因果というものの考え方なのではないだろうか。

 坐って呼吸を整えていると意識が逸れる。

 逸れる…どこから?

 それは、眼の前の壁であり、自らの呼吸の音であり、頬のむずむずだったり、とにかく、「いま、ここ」にある自分から意識が逸れる。自分を生きることからふらふらと離れてしまう。

 確固として我ここに在り。

 何かを変えたいなら、いま背筋を伸ばし、いま呼吸を整えよう。それは確実に、世界を回転させる原因となる。

再び祈りについて 

 祈るということが、とても難しく感じることがある。

 それは、何か超自然的な力に何かをお願いすることでは、必ずしもない。むしろ、それは自分を自分たらしめている何らかの働きと向き合うことなのだと思う。

 何と向き合うかは、人それぞれ異なるのかもしれないし、共通の父なる神が存在しているのかもしれない。それは答えることのできない問いであるように思う。ハイデガーはこのことをよく理解していた。

 この「向き合う」という行為において、分裂と混乱の中、自分がどこかへ拡散して行ってしまうような感覚を覚えることがある。神の臨在を肌の向こうに感じ、その呼び声、「OOよ、汝はいまどこにいる?」、を耳にしつつも、それに応えようとする自分の不在という混乱。主体の喪失。

 坐り始めたのはそういう信仰上の混乱からだったのかもしれない。自分自身の真実が叫ばなければ、祈りは聞き届けられない。だから今日も坐るのだろう。

 自分の中の真実を、揺り起こすため。

坐禅レポォト その3 

 今週、先週と中央線、武蔵境駅の観音院に参禅。

 
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前世とか江原さんとか 

 いや~、何がうけたって、いるんですよ。

 イギリスにも江原さんが。(笑)

 コレ↓

 http://www.derekacorah.org/

 ほれ、ここ幽霊大国じゃん?

 だもんで、幽霊屋敷に霊能力者とか科学者とかが泊り込んで、探索するって馬鹿番組やってたりするわけ。
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心を配る 

 種も撒かずに、実りが無いのを嘆く人たちをたくさん見かける。

 キリスト教の根底には、Give and TakeならぬGive and Giveという価値観があると思う。

 それは、別に努力して人類すべてを愛せよとか、そういう難しい話ではない。

 そうではなくて、「あなたの傍に居る人の心が軽くなるように心を配ってあげると楽しいですよ」という、きわめて単純なことなのだと思う。
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