フリーズ&ドライ 

 吐き出す。そして刻みつける。今の自分を。

 書くと言うのは、自分にとってはそういう営み。

 だからこそ、去年や一昨年、あるいはもっと前の文章を見て、青さに微苦笑する時、「まだ前に進めているなぁ」と安心する。

 27に先日なったが、まだまだ途上。職場の先輩には、「○○君はまだ粗削りだから…」と笑いながら言われる。そのとおり、削っても削っても、まだまだ原石の武骨さ。いつになったら洗練と冷酷さを手にすることができるのやら…。

 小さい頃、大人になったら何かが完成するのかと思っていた。

 そういう意味では、「大人」とやらはまだまだ遠い。手を伸ばしても、あの頃と変わらぬ距離にある。

 こうやって気持ちを綴る。

 どこに行こうか。

 迷い、佇み、また歩く。

 手腕、能力、何のその。仕事は大好きだし楽しくて仕方がないが、うかうかしていると仕事が自分になり変わる。

 それでもいいか。

 でも、何かが違う。光溢れるトスカーナの沃野に何かが待っている。

 そんな気がする。

どこへ 

私はどこへ行こうというのか?

あなたの足が向かうところへ。

どこへ向かえばいいのか。

あなたが行きたいと思うところへ。

誰と向かえばいいのか?

あなたと共に歩きたいと思う者と。

日々を生きる
ただ日々を生きる。

メランコリー

一期一会

昨日のわが心、今日のわが心にあらず。

昨日の汝の心、今日の汝の心にあらず。

自分の仕事は自分でつくる。
そうでなければ、世界のイライラに巻き込まれる。

身を削る 

 わたしが身を削って与えれば与えるほどわたしは小さくなり、あなたの視界から消えていく。そして、わたしはいなくなる。

 仕事にせよ、人間関係にせよ、自分自身すら大切にできない人間が、一体他人から何を望もうというのだろう。

ちょっと格言的 

今日何かが変わらなければ、
明日も同じ今日になる。

批判的な読書という考えに反対 

 批判的な読書をすべきという考え方に反対。

 若い学生や一部の研究者と接していて思うのは、テキストの内容を理解する前にわかった気になって、とてつもなく浅くとんちんかんな読み方をしていることが多いということ。要するに、最初から批判してやろうだとか、理解してやろうだとかいう姿勢は、わかった気になってる馬鹿や積読馬鹿を量産することになる。

 むしろ、読書をする際は、著者を100%肯定するつもりで読むべきだ。ただし、同時にその内容は事実(fact)ではなく、著者の「意見」(opinion)であるにすぎないということも明確に意識していなくてはならない。あくまで、「意見」として、それを一旦は100%肯定するプロセスが読書においては一番重要。

 100%著者が正しいと仮定して読みつつも、なおも感じる違和感があるとすれば、それはおそらくその著作の持つ本質的矛盾であったり、誤謬である可能性が高い。

 

自分の為 

 この世に生まれたことで、一つだけ義務が発生するとするならば、自分を幸せにしてあげることだと思う。

 自分の為に生きられないやつは、他の誰の為にもいきることはできない。

 誰よりも、まず自分が大切。

 「あなたの為を思って…」ぐだぐだと言うのは、結局のところ依存であり、世界に不幸を振りまく行為だと思う。

 まずは自分。

 だって、自分以外の誰が、自分の為に頑張ってくれるの?

 不幸な人間は、誰も幸せにすることは出来ないし、また今与えられている幸せに気づくことも、それを享受することも出来ない。

 だから、まずは自分の為に努力しな。

意地を張る 

 意地を張ることで、人間、いろいろなことを逃してしまう。

 追うべきでないものにこだわることで、本当に大切にすべきものが見えなくなってしまう。

 本当に自分を見てくれている人に背を向けることで、しあわせが指の隙間をすり抜けていってしまう。
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