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傍論は暴論?~そろそろ憲法裁判所の設置を真剣に検討する時期じゃないだろうか~ 

 先日、大阪高等裁判所の判決の傍論において、小泉内閣総理大臣の靖国神社参拝を違憲とする判断がなされた。この件について、ネット上で猛烈な反発が巻き起こっている。

 反発の根源は、無論、裁判所が靖国参拝を違憲と判断した事実にある。しかしながら、興味深いのはここで提起されている傍論における違憲判断の是非という論点だ。

 つまり、実際に問題になっているのは憲法の問題であるのにも関わらず、法廷で争われたのは国が小泉総理の靖国参拝により原告が被った精神的苦痛に対して賠償責任があるかどうかという点であった。で、当然、その点について原告は敗訴し国は勝訴する。でも、判決文にはさりげなく本論とは関係のない、「傍論」という形で「靖国参拝は違憲だ」という司法判断が盛り込まれる。でも、国は肝心の訴訟では勝訴しているために、上告できない。ここが大きな問題となっている。

 
 何度も公言しているように、自分は純然たるアンチ靖国だ。(自分の信仰の問題。あそこに「英霊」が実在すると自分は信じられない。遺族の方々がそれを信じるのは理解できるが、その神話に国家単位で付き合う必要はないと感じる)しかし、この「主文=国側勝訴、傍論→違憲判断」方式に対して多くの人びとがフラストレーションを感じていることについては共感できる。

 そもそも、少なくとも原告側の主観において、今回の訴訟は実質的には「靖国参拝」の合憲性を問うものであった(参考)。しかしながら、実際に直接の司法判断が仰がれたのは合憲か違憲かではない。原告側が受けた精神的苦痛に対して、被告である国が損害賠償を支払うべきか否かである。いわば、今回の訴訟は、他のあらゆる憲法争訟と同じく民事訴訟であった。

 だから、裁判所は確かに違憲判断を表明したものの、それは傍論の中であった。法の形式上、それは当然のことのように思われる。ソースは失ってしまったのだが、最近バラエティーでよく見かける橋下弁護士が、「傍論とはようするに裁判官の寝言」云々といったコメントをしたそうだ。こちらは法律に関してはまったく素養がないので、ふぅんと思ってしまう。

 で、実際調べてみたところ、裁判における「傍論」とは以下のような性格のものらしい。

〔レイシオ・デシデンダイ(判決理由)とディクタム(傍論)〕

 判決で示された準則―繰り返していうが、「重要な事実」の総和を「仮定<仮設>」とし、そのもとでどういう法的効果が認められたかを「結論(終結)」とする定理―のことを、英米では、ratio decidendiという。このことばは通例「判決理由と訳されているが、判決の中で「理由」の部分と混同され易いので、「判決で示された準則」というか、カナ書きにして「レイシオ・デシデンダイ」というほうがよい。判決の理由の中で裁判官が述べたことで「レイシオ・デシデンダイ」に関係のない部分を、dictum(またはobiter dictum)―複数はdicta―という。「ディクタム」は通常「傍論」と訳されている。「傍論」は全く無意味だというわけではなく、後の事件の解決に際して参考にされることがある。しかしそれは、判例としてではなく、学説(224-5頁参照)と同じ次元で参考にされるという性質のものである。

田中英夫 編著 『実定法学入門』 p214-5

強調部分は筆者による。

 

 なるほど。こうしてみてみると、たとえば朝日新聞による「実質的には国の敗訴だ」という手放しの勝利宣言も、少し保留の必要があるのではないだろうか。なるほど、確かに裁判所は小泉内閣総理大臣の靖国神社参拝について違憲であるという判断を下した。が、しかし、それは「傍論」の中においてだ。産経新聞のように「ねじれ判決に拘束力なし」とまで感情的な断定ができるかどうかは疑問を感じる。が、しかし、過大に今回の司法判断を持ち上げる事ができないことも確かだ。(ちなみに、このい問題における法的見解についてはこちらの記事が非常に参考になる)

 つまり、今回の判決は靖国問題についての最終的な法的決着をつけるような内容ではなかったということが言える。もしかしたら、別の裁判では違った司法判断が下されるかもしれない
いったい、いつになったらこの問題は白黒がつくのだろうか。そもそも、こうした、フラストレーションの原因は何か。

 自分は、国民が憲法問題を純粋に憲法問題として提訴することができない現行の司法制度に問題があるのではないかという気がする。純粋に憲法問題として考えた場合、ある政治的行為が違憲か合憲かは、はっきりと白黒つけなくてはならない。靖国参拝が違憲ならば、それで不満を感じる人びとは憲法の改正へ向けた活動を始めるべきだろう。同様に、もし靖国参拝が合憲と司法が判断した場合は、自分は自分の信仰の自由のために声を挙げ、人びとを説得することで政治的に戦うだろう。それが本来の立憲民主主義の本道であり、筋道であるはずだ。

 ゆえに、そろそろわが国も憲法裁判所の設置を真剣に検討すべきではないだろうか。幸いなことに、自民・民主の両政党はこの件については違憲の一致があるようだ。昨今実りのない改憲論議が盛んだが、改憲よりも先に現行憲法において何が違憲か合憲かをはっきりと白黒つけることが先ではないだろうか。ゆえに、早急に憲法裁判所を設置することを提案したい。




 以下、「傍論」(笑)となる。前述のようなことをを主張しつつ、一方ではこれまでのように合憲性が万事につけ曖昧模糊としていた状態というのは、ある意味いいことなんじゃないかとも思う。

 と言うのは、靖国問題もそうだが例えば憲法9条と自衛隊の問題。自衛隊が純憲法的視野から見た場合、おそらく違憲なんだろうなぁとはだいたい皆が思っている。だから、改憲論というのが執拗に提起される。でも、一方で明確に違憲とされないからこそ、日本は平和憲法を持ちつつ自衛隊という形で自前の防衛力を持つことができる。

 ある意味、政治の世界には「曖昧にしておく」知恵という暗黙の世間知みたいなものがある。それは、「なぁなぁ」にしておく知恵と言い換えてもよい。現実の世界と言うのは、言ってみれば巨大などろどろだ。それは、社民・共産陣営の人びとや、ビン・ラディン氏、さらには小泉・ブッシュ・安倍晋三的メンタリティの人びとが思いたがっているほど白と黒がはっきりできる世界ではない。

 政治とは、そういった得体の知れない現実をなんとか統御し、可能な限り最大多数の最大幸福へ向けて共同体の舵取りをする作業だろう。いわば混沌とした現実の中から、争点ではなく、最大公約数的な利害の一致点をみつけだすのが政治の要諦のはずだ。

 そんな世界において、原理主義的単純化や論点の先鋭化というのは、むしろ大きな罪悪につながることが多い。歴史上、人びとが何かについて原理的に白黒つけたいと積極的に動き始めると、だいたい政治的にはろくでもないことが起こる。争点が先鋭化し、世界観の対立になったところでは政治そのものが失われることが往々にしてある。

 それにつけて思い浮かぶのは、例えば宗教改革の後に続いた動乱の歴史だ。当時のカトリックというのは、よい意味でも悪い意味でも極めていい加減で、非常に「政治的」かつ「現実的」な融通のきく宗教となりつつあった。プロテスタントとは、いわば当時における「キリスト教原理主義」であったといっていい。

 純粋にキリスト教の教理に内在して考えた場合、ルターの問題提起は正しいし、当時のカトリック教会が原理的に腐敗していたのは確かだろう。しかし、そういった「原理」の先鋭化は新教⇔旧教の絶対的な対立をヨーロッパに政治地図にもたらし、果てしない戦乱と民衆の悲惨をもたらすきっかけともなった。カール5世のキリスト教帝国は崩壊し、30年戦争ではドイツの人口は実に八分の一まで落ち込んだと言う。(もっとも、最近の研究では、この数字は過大であるということが証明されているらしい)

 「原理」というものが政治的に果たしうる災厄について、いつも考えてしまう。憲法9条にしてもそうだ。9条の理念そのものには賛成だし、あくまでプログラム規定としていまのままでいいじゃないかと僕は思う。しかし、一方であれが原理主義的な「9条信仰」の対象となり、かえってわが国の平和主義の障害となっているのではないかと感じることもあるのだ。本当に難しい問題だ。

 靖国問題のおいても、あれを違憲か合憲か白黒はっきりさせることは、ある種の断絶へとこの国を押しやる可能性がある。本来、その曖昧さを小泉総理をはじめとする政治家の人びとがきちんと認識して、そこらへんを「適当」に対処しつつ、問題を「なぁなぁ」のままにしておいてくれればよかったのだろう。

 しかし、小泉総理が参拝に固執することによって、その「曖昧さ」が打ち破られ、争点がどんどん原理的に先鋭化してきている。小泉総理がああいう形で靖国を強調すればするほど、暗黙の妥協点や「落としどころ」での決着の可能性がこの問題からどんどん失われる。これは、政治的にはよくないことだと自分は思う。

 以上、本論とはまったく関係のない「傍論」…ではなく「暴論」。ねじれ判決ならぬねじれエントリー。(笑)でも、真実って、だいたいこういうものじゃないだろうか。

参考サイト

小泉首相靖国参拝違憲アジア訴訟団 大阪訴訟ホームページ
JIROの独断的日記ココログ版 「靖国参拝違憲判決を批判するのは簡単だが、裁判官は命がけなのです。」
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コメント

TBありがとうございます。
私の思うところというのは、靖国参拝賛成なのですが(遺族ではないですが英霊がいると信じているクチなので)しかしならが、現実的な意見としては寝太郎さまの「傍論」の方の意見に近いです。
なんせ為政者というのは、現実世界に生きているわけで、空想世界に住んでいるわけではないですから。
曖昧なままの方が上手くいくことってのもあるのも事実ですから、何も全ての事柄に白黒つける必要などないと思うのですよ。
特に日本人は「曖昧の良さ」というのを生まれながらに備えている気がしますし。

はじめまして
TBありがとうございました。

傍論についてとても参考になりました。
裁判官が発する以上、「寝言」ではないだろうとは思っていましたが(笑)
読んでいてなるほどなぁと思いました。

橋下弁護士も「日本には憲法裁判所がない」ということは指摘しており、無知な私は「ほぉ世の中にはそんなもんがあんのか~」と思いました。
世の中知らないことばっかりです、ハイ。

ところで揚げ足をとるようですが、1行目
靖国参拝を違憲と言ったのは大阪の高等裁判所ですよ。

そうそう

>佐倉純さん

 そうなんですよね。僕自身、アンチ靖国派ではありますが、なんでこの問題がここまで感情的な対立になってしまうのか理解に苦しんでいるところがあります。

 もちろん、外交的な視野に立てば中国・韓国の猛烈な反発が問題を先鋭化していることは事実です。ただ、一方で小泉総理が「なぁなぁ」で適当なところで消火しなかったために、彼ら(特に中国)も退くに退けなくなってしまったということもあると思うんですよ。

 「なぁなぁ」でいいと思うんですよね。もちろん、個人として自分の意見は持たなければいけないけれど、でもわれわれは自分と異なった意見の人々と共に生きていかなければならないのだから。

 コメントありがとうございました。

>ひとみさん

 ギャ、なんというひどいミス。即座に訂正しました。ご指摘、本当にありがとうございます。

 まぁ、寝言っていうのは言葉のあやでしょうけれど、実際法廷で仕事をしている人にとってはそんなものかもしれませんね。

TBありがとうございました。

>以下、「傍論」
の部分、特に興味深く読まさせていただきました。「あいまいさ」は、いい意味でも悪い意味でも、日本文化の特徴なのでしょうか?

憲法裁判所については、時期尚早かなぁというのが正直なところです。現在の日本の状況では、為政者に利用される危険性の方が大きいのではないかと危惧する気持ちの方が、私は大きいです。

TBありがとうございました。

TBありがとうございました。

小泉首相の靖国参拝を違憲とした傍論は、法的な効果はともかく、政教分離について世論を喚起したという政治的な効果において一定の意義があったと思います。

憲法裁判所の設置というのは微妙なところですね。司法が政府・国会に影響を与えられる範囲が変化するには、憲法意思の尊重と裁判所の尊重が国民にもっと浸透する必要があるでしょう。違憲/合憲の判断を裁判所が下すにあたって障害になっているのは、一時的な民意または民主的決定を最優先させるのが民主主義だという誤解です。現状では、憲法裁判所を設置しても、憲法に適合するか否かについて曖昧な部分が少なからず残され続けるかもしれません。

>ORUTOさん

 日本文化の特徴でもあるかもしれませんが、だいたい歴史上、どこの国、いつの時代でも、本当に繁栄している時代の政治ってのは割合「なぁなぁ」なんだよなぁってことをよく思います。

 憲法裁判所が為政者に利用されるというのは現実的な危惧だとは思います。ただ、僕は思うのですが、そろそろ戦後60年間積み重ねられてきたたくさんの矛盾が整理されなくてはどうしようもない時期だと思うのです。そういった意味で、特に憲法の問題は決着をある程度はつけざるを得ないのかなという気がします。

ポイントは良くも悪くもその政治性

>びんごばんごさん

 そうなんですよね。こういった憲法の絡んだ訴訟というのは、結局のところその時々の社会現象に対する応答という意味で、結果的にどうしても政治的になってしまう。
 
 「違憲/合憲の判断を裁判所が下すにあたって障害になっているのは、一時的な民意または民主的決定を最優先させるのが民主主義だという誤解」だというびんごばんごさんの見解には、なるほどなぁと思うところがあります。しかし、その文脈で問題を詰めて考えていくと、結局のところそういった「誤解」が生じるのは何故かということを考えていく必要があると思うんです。

 憲法裁判所という、非常に原理的なレベルで司法が判断を下せる機関ができることで、僕はかえって「憲法意思の尊重と裁判所の尊重が国民にもっと浸透する」ことになるのではないかと考えています。というのは、結局のところ憲法というものは国の根幹たる社会契約です。そして、本来三権分立が最も機能しなくてはならないの、まさしくこの「憲法」の領域だと思います。ゆえに、そういった国内政治の根元の部分での三権のせめぎあいを顕在化させる「場」をつくることは、かえって国民のそういった国制についての意識を促進することになるのではないかと思います。

 

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その程度の憲法だったら、さっさと捨ててしまえ!

私なりの政教分離の解釈というのは、靖国神社の問題に限って言えば、 ・政治家が参拝する/しないについて、神社が指示をしない。 ということだと解釈しています。 公式参拝したいといえば正装で出迎える、参拝しないと言っても「参りに来い」と強制しない。そういうもんだと

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