わが愛しの姫君 

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ズレ 

自分のことばを使わないと、「ズレ」が生じる。言葉だけが一人歩きして、言葉だけのコミュニケーションに。描写ではなくステレオタイプによる会話。 それがもたらす感性の白痴化。
具体的に! そう、とにかく具体的に!

フリーズ&ドライ 

 吐き出す。そして刻みつける。今の自分を。

 書くと言うのは、自分にとってはそういう営み。

 だからこそ、去年や一昨年、あるいはもっと前の文章を見て、青さに微苦笑する時、「まだ前に進めているなぁ」と安心する。

 27に先日なったが、まだまだ途上。職場の先輩には、「○○君はまだ粗削りだから…」と笑いながら言われる。そのとおり、削っても削っても、まだまだ原石の武骨さ。いつになったら洗練と冷酷さを手にすることができるのやら…。

 小さい頃、大人になったら何かが完成するのかと思っていた。

 そういう意味では、「大人」とやらはまだまだ遠い。手を伸ばしても、あの頃と変わらぬ距離にある。

 こうやって気持ちを綴る。

 どこに行こうか。

 迷い、佇み、また歩く。

 手腕、能力、何のその。仕事は大好きだし楽しくて仕方がないが、うかうかしていると仕事が自分になり変わる。

 それでもいいか。

 でも、何かが違う。光溢れるトスカーナの沃野に何かが待っている。

 そんな気がする。

柴田淳 ふたり 



二人が二人でいるために
神様 お願い 二人を繋ぐ心ください


 きっと人は一人で生きるもの。でも、ふたりになれる瞬間、誰かと何かがつながり、何かが通い合う瞬間が確かにある。

 それは刺すような熱で自分の心に刻みつけられる。それでいて、相手との間のそのつながりは、触れたら崩れてしまうほどに儚くおぼろげだ。

 暖かく、あやうく、それでいて確かに存在するもの…それが確かなものとなる為に必要なもの、それは「二人をつなぐ心」であり「二人で満たす心」。柴田淳さんの新曲、「ふたり」は「二人でありたい」という人の心をことば・メロディともに充実した簡潔さで歌い上げる名曲だ。

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江戸東京たてもの園 

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今日の一句 

欠伸して
ほろり目に染む
桜かな

本を読まない人間はサルである 

 「本を読まない人はサルである!」という刺激的な副題を書店で見かけ、クスリと思わず衝動買い。

 本を読む習慣の有無というのは、人を判断する一つの尺度にはなるかもしれない。

 尺度…それは知的優劣云々というよりもある種の傾向性。異質な価値観、未知の考えに対して開かれているかどうかということ、そして広い意味での「人間」への興味の有無。そんな傾向性の在り方が読書に対するその人の姿勢から推測することができるのではないか。

 仮説1 
「ある人の読書に対する姿勢には、その人の対人関係の在り方と相関関係が存在する。」

 一言で言うと、カギとなるのは他者への「興味」の有無なのだ。

 大衆の中の孤独が生じるのは彼が同質性のスープに溶け込んでしまっているから。暗黙の「空気」が読める人々だけを残した均質な予定調和の中では、何千人が群れようとも人は一人であり、孤立している。

 人は自らを見るためには鏡を要する。しかし、水であれ、ガラスであれ、鏡となり得るものの構成は人と絶対的に異質だ。異質なものと向き合う中で人は初めて自らの真実を確かめることができる。

 そう、ここだ。異質なもの、イレギュラー、自分のインデックスの再編成を迫るような視野の逆転をもたらすもの。そうしたものの侵入が日常の平面を切り裂く瞬間に人の再生がある。
これを興奮とスリルとして肯定的に捉えるか、それともイミワカンナイで片付けるか…そこには何かの裂け目、少なくとも伸びしろの期待値の絶対的な差がある。

*例外事項: 自分の正当化のための読書

 自らの偏見、無恥、怠惰を肯定するための権威づけを求めて読書をする輩。これが意外に多い。→同質性を求めての読書。コンプレックスの補完薬としての書物。精神的シークレットブーツ。 あー、なんか人文系のナルくてキモイ文学少年に多いわ、この類。